ごと



ノーマンがじっと見つめる先は、もうなにもなくなっていました。さらさらと気持ちの良い風が頬や前髪を擽っていって背の高い緑の草もざああっととても良い音をたてているだけです。
「――――しぉ、」
ノーマンが呟きました。まだ、お胸のあたりがざわざわどきどきとして落ち着きません。なんだかいつものお留守番のときと違います。もしかしたなら、「れきし」の話を聞いたせいかもしれませんでした。王様のことは大嫌いですが、ノーマンはこどものころもこぐまのころも、昔話を除いてはこの「おうこく」のことだけしか知りませんでしたから、魔法使いのようにすてきなお仕事をする人たちをしょけいしてしまう国があるなんて想像もしたことがありませんでした。
ショオンはとても強い魔法を持っ
ていますから、多分誰にもつかまったりすることはないとは思っておりますが、いちど心配しはじめるとノーマンはどんどんと想像を無分別にたくましくしてしまって大変なことになってしまうのです。
「だいじょうぶですもの」
お口をきゅっとまっすぐに結んで、ノーマンが言いました。
せっかく今日は、春部屋でショオンとふたりで一日ピクニックをして遊ぼうと思っていたのに、いまはノーマンはお留守番なのです。
「やっぱりいやなひとですよ」
王様のことです。いつもノーマンは王様のすることに「ふんがい」するのですが、ショオンは笑っているだけです。
すこしだけ腹をたてて、ノーマンがビスケットを草原にぶつけました。葉っぱにあたって、ビスケットは細かな霧になって消えてしまって、むう、と唇を尖らせます。
雲の流れていくのにあわせるように小鳥たちが歌うのも、だんだんと面白くなくなってきます。
ショオンがいたならとても楽しくて幸せなことのぜんぶが、いまではまるきりつまらなくてノーマンがますます怒ってビスケットもピクニックバスケットもぜんぶ片づけてテーブルに置いてしまいました。
「もういいですよ」
そう言葉にすればあっというまにテーブルの上には何もなくなっていました。
ぐるりとノーマンが春部屋を見まわします。果てがないほど広く見えて、どこまでも原っぱが続いています。今日は、あのみえなくなる線のずっと先までいっしょにお散歩に行こうと思っていたのに王様のせいで台無しです。
「ぼくは、おうさまだけは大きらいなんですよ」
ぷんぷん怒りながらノーマンが水晶のネックレスの中にいまはまだはいっている「おししょう」に話しかけます。
「王などいつの世も愚かなものだ」
「ほんとですよ、ぼく、きょうは遠くまでお散歩に行こうとおもっていましたのに」
「まったくだの」
最近は、古の神さまの「おししょう」もノーマンとの会話は流すようになっています。
ぷんぷんとしたままのノーマンは、もう一人でこの春部屋にいたくなくなってしまいました。
ですから、ばたん!とノーマンにしては珍しく乱暴にドアを閉めて長いお廊下へ出てしまいます。魔法のお城がすこし驚いてしまうくらい、乱暴な「ばたん」でしたので、ノーマンがこんなに不機嫌なのはとても稀なことなのです。いつだってのんびりご機嫌でにこにこしているノーマンです。

そしてお廊下に出て、ノーマンが首を少し傾げました。
いつも忘れてしまうのですが、「冬部屋」や「春部屋」のように魔法で季節をつくっているお部屋にいると、お部屋の外とはどうも時計の進み方が違うようなのです。
遅い朝ごはんを食べてからお散歩にでかける予定でしたので、まだ早いはずだと思っておりましたが、お廊下の向こう側の窓からさす明かりは、どうみてもお昼を過ぎています。
魔法の森で長い間「こぐま」として生活していたノーマンは、日差しの色で時間を計ることもできるのです。
「あら」
不機嫌を少しだけ忘れてノーマンが目をまんまるにします。
すぐにもどるよ、とショオンはお約束してくれましたから、お昼には間に合わないかもしれなくても、お夕食は用意した方が良いなと思ったのです。
自分用のお昼には、干したトマトとオリーブとパプリカとスパイスの入ったケーキサレを焼いたばかりでしたので、それと濃いめにいれたお紅茶と果物を食べて、すぐにお夕食のしたくをすれば、気分は良くなるかしらと思ったのです。それに、この間しょぉんにおいしいシチューをつくることもお約束したばかりでした。
『ぼくはね、うさぎのシチューも上手なんですよ』そう大自慢をしたならにっこりわらったショオンが、それならたべてみたいね、と頭を撫でて言ってくれたのでした。
お夕食用のうさぎのシチューのお支度をして、白い皮のすこし柔らかめの薄い塩味のパンと、チーズの入った硬いパンを焼いていたら、きっとショオンはすぐにかえってきてくれるはずです。
そうと決まれば、すぐにお台所へノーマンは廊下を走っていきます。なにかの急なご用事ででていったショオンにおいしいごはんを食べてもらおうとおもって、もういてもたってもいられません。
さっきまでの不機嫌はもうどこかへ消えてしまって、お台所へまっしぐらです。
ばああん!と両手でお台所の大きなドアを開けば、魔法のお城のことですからばたばたと走り込んできたノーマンが椅子に足を引っ掛けてもうすこしで転ぶところを別の椅子が飛び上がって受け止めます。
「ひゃあ…!」
すとん、と大きな椅子に座りこんでノーマンが目をまんまるにします。
そして、石造りのカウンターの上に、お鍋やボウルやお粉やお野菜やうさぎのお肉といったお支度に必要なものがぜんぶそろっていることににこにことします。
「ほんとに、かしこいお城ですねえ…」
きっと、大嫌いな王さまのお城は、昔のご本でみたような金ぴかできらきらしていて大きいだけのつまらないところに違いありません。
「王様のお城なんかと、大違いですよ」
これは、王様は相当ノーマンに嫌われています。
「さあ、おいしいごはんをしたくしますよ」
ぴょんっと椅子から元気よく立ち上がってノーマンがゆったりした麻の生成りのシャツの袖をまくりあげれば、薄いグリーンをしたエプロンがくるんと腰のまわりでひとりでにリボンで結わかれます。
スプーンや木のヘラもラックから行進してくるのに、あっという間にノーマンはお支度に夢中になってしまったのです。
けれど、それもほんの2時間ほどのことでした。
お支度に夢中で、お昼を忘れていたノーマンが、ケークサレを温めてお紅茶を飲むまでのことでした。
こんろでは、大きな銅の鍋でおいしいシチューがすばらしい香りをさせて煮込まれていますし、パンだってあつあつに焼けてオーブンの中で食べるときまでおいしいままでおりますし、たっぷりつくったアスパラガスのサラダだって氷室のなかできりっと冷えているのです。あとは、ショオンがいつものように戻ってきてくれるだけでいいのです。
でも、窓の外はもう半分、暗くなり始めていました。
一生懸命見ないようにしても、お外の暗がりが目の端っこに入り込んできてしまって、ノーマンは困りました。
こんなに長い間、「すぐにかえってくる」はずのショオンがお城を留守にしてることは初めてでした。
長いお留守番になるときは、ちゃんとそう教えてくれますし、何時に戻ってくるかもショオンはいつも教えてくれているのです。
「おそいですよ…」
なにかのご用事でおそくなっているだけかもしれませんが、それにしても朝、あんなおそろしい話を聞いてしまったあとだから余計しんぱいになるのです。
ショオンは、「おれのししょう」と同じくらい、無敵の大魔法使いなのですから「そこらのざこ」に負けるはずはないのですけれども、なにか「ひきょうなて」をつかわれてしまってピンチなのかもしれません。まえに、ショオンが読んではいけない、と教えてくれたご本にあったような「すじがき」をノーマンがどんどん思い出してしまいます。
ことん、とノーマンが紅茶のカップを置きました。
「おむかえにいったほうがいいんですかしら」
お城から一人で外へ出たことはないノーマンですが、いまが「きんきゅうじたい」なのではないかとも思います。
きんきゅうのとき、にはお城から一人でも外へでられる、と前にショオンが教えてくれたことも、しっかりと覚えているのです。いつもはのんびりとしたノーマンですが、実はショオンのお話してくれたことはほとんどぜんぶ、覚えているのです。

ですから、きゅ、とお星さまネックレスといっしょにおししょうのはいった水晶のペンダントも握ってお台所を出るとお城のお廊下をずんずんと進んでいきます。
いくつもの角を曲がって、もうすっかり暗くなって燭台の灯りのともった窓の前を通り過ぎて、「お玄関」へと向かいます。
「―――――わぁ」
その途方もない背の高さにノーマンが瞬きしました。ショオンと一緒のときは思ったこともありませんでしたが、天井が見えないほど背が高いのです。
こし、とノーマンが目を擦りました。もう一度見上げてみても、背の高いままですから、錯覚ではないようです。
「こんなにおおきかったですかしら」
ふむ、と呟いてもそこは行動力のあるもとこぐまです。えいっと勢いをつけて体当たりをしてみます。なぜなら、取っ手がみつからなかったからです。どおおおん、と大きな音が鳴って、ノーマンが跳ね返されます。思い切りぶつかっても痛くはないのですが、硬いゼリーにぶつかったようで身体が跳ね返されてしまうのです。
「ひゃあ」
ころん、とよろけて転がって、ノーマンはしりもちをついてしまいます。そしてそのままドアを見上げます。
ぶるぶるぶる、と本当に大きなゼリーのように扉は振動するだけで、ちっとも開きません。けれど、きゅ、と拳を握ってノーマンが立ち上がりました。
止せばいいのに、ノーマンはとてもがんこでがんばり屋なのです。そして、すっかり息が上がって、転びすぎて頭がくらくらするまで、ドアに体当たりをし続けたのです。
最後に思い切り椅子ももって突進したときは、ぶうんとほんとうに遠くまで飛んでとばされてしまって、お椅子
に空中で座ったノーマンはお廊下の端のほうまでそのまま滑っていくほどでした。
「でれないよう…!」
お椅子に座ったままでノーマンが半泣きになります。
「わっぱ」
呆れ果てて寝ていたはずのおししょうの声がします。
「でれないんですよう」
しくしくと泣き始めたノーマンの足元にあわててイー二ィミーニィマイ二ーが駆け寄ってきます。さっきから何度もご主人の傍へいこうとするたびに『むこうでいいこ!』と怒られていて近づくこともできなかったのです。
「たわけ。出られるものかよ、あれには呪が掛けられておるわ」
「そ、なんですか…?」
ひぃく、とノーマンがしゃくりあげます。
「おまえがふらふらふら出かければ、アレが迷惑なんであろう」
アレ、とは大魔法使いのことです。
「でもー、ぼく、しょぉがしんぱいなんですよぅ」
おまえに心配されるようではアレはとうに終わっておるわ、とはおししょうは言わずに唸るだけにしています。
くんくんとイー二ィが心配そうに鳴いてノーマンの手にベルベットのように滑らかなおハナを押し付けます。
「おろかもの。あそこからは出られぬ。諦めよ」
「――――そうなんですか、」
えく、とようやくノーマンが泣き止んで、おししょうはやれやれ、と嘆息しました。これで、このばかなこどももおとなしく居間なり暖炉の前なりで休むだろう、と思ったのです、が。おししょうは、ノーマンのことを買いかぶりすぎていたのです。
「わかりました、じゃあ別のところから出ましょう…!!」
「ばかものめが!!!!!」
おししょうの喝も、しんぱいに火のついてしまったノーマンには効果ゼロです。地獄の番犬の子犬たちでさえ、ぴょ、と飛び上がるほどの衝撃だったのにもかかわらず、です。
わかりました、とほっぺたを掌で拭うノーマンにはまったく堪えていないのです。
別の出口さがし、という新しい目的にむかって突き進むもとこぐまをとめられるのは、ただ一人、いまここにいない大魔法使いだけです、なんという皮肉でしょう。
「じゃあ、かたっぱしからアタックですよ…!!」
ごおお、と背中に炎が巻き起こっていそうな意気込みに、おししょうはぐるると唸りますが効果はありません。
イー二ィたちも、このお城にはたくさんの「部屋」があることを知っていますからなんとかご主人をいさめようとしますがノーマンには通じません。むしろ、足元で吠えて跳ねる子犬をみて、こっくりと頷くのです。
「わかりました…!みんなも応援してくれているんですね!はやくしょおを探しにいきましようね」
大間違いです。けれど、目の前のことしか見えないノーマンには通じません。
「まずは、ぜったいいっちゃだめ、って言われているところが怪しいですね」
ふむ、と独り言をいってばああんと扉を抜けていったノーマンの後をあわてて子犬が追いかけます。
あうわうと吠えても。応援としか受け取ってくれないご主人にどうしていいかわかりません。万が一、ご主人の身になにかあったら、地獄の主より恐ろしい大魔法使いになにをされるか、想像だってしたくないイー二ィたちです。

そんな苦労はまったく感知しないノーマンは、かたっぱしから扉を開けていきます。ぐねぐねと長い廊下には、それこそ数えきれないほどのお部屋があるのです。ばあーん、と開けた最初の部屋は薬草が天井中からぶら下がっている部屋でした。すううっと空気も澄んでいて、妖精さんたちの好きそうな匂いがします。
「しぉおおおお…!!」
覗き込んで呼んでも、しいんと静まり返ってノーマンの声の木霊だけが何重奏にもなって帰ってくるだけです。
「あら」
すぐに次へと向かいます。
どおん、とあければそこはネジと時計とばねだけでいっぱいな小部屋でした。針のちくたくいいう音が色のついた音階で空中に浮いています。その様子を一瞬だけ、ノーマンは見惚れます。
「しぉおおおおん!!」
叫んでも、空色の音符が薄紫のト音記号にぶつかってちりんちりんとうだけでした。
「あら」
すこし面白いです。
「しおおおおおおおん」
もう一度呼んでみれば、ノーマンの声がはちみつ色の音符になってうらゆらと揺れます。
む、と口をまっすぐに結んで、ドアを締めて反対側に走っていきます。
がああ、と石を引きずるような音が開けるときにしたドアの中には、からっぽの空間が拡がっていて、ノーマンが首を傾げました。
「しぉおおおお??」
そうしたなら、灰色の霧のようなものが部屋をいっぱいに満たしてから一瞬で消えてしまいます。
「あら」
いまのはなんだったんでしょうとノーマンが呟きます。
足元で子犬が跳ねて、おししょうが「早く閉めよ」と怒っています。もっと見ていたい気も少ししましたが、ノーマンがおとなしくドアを閉めます。
「いまのはなんですか」
「精霊の仲間だ、アレの道具だな」
「へえええ」
感心して呟いて、ドアを見つめます。けれど、は、と目的を思い出して。足元の子犬を抱き上げるとまた走り出します。もうやめようよ、と子犬たちは吠えているのに、ノーマンには相変わらず応援に聞こえているようで、廊下を進む速さが一段と増しているのです。
けれど、いくつかはノーマンが体当たりしても開かないドアはありましたし、押して開かなければ引いて開いた扉もありました。でも、どうしても、ショオンだけはいないのです。
ほとほとともうノーマンはまた涙を零し始めました。
疲れてきたし、お城は広いし、しょおんはまだ気配さえありません。
階段をずんずんのぼって、長いお廊下の果てにドアの前でノーマンは頬を拭いました。
これが最後のドアです。
知らないお部屋の最後です。
このなかからもショオンのいるところにつながっていないとしたら、夜がもう遅いのにショオンには会えないことになってしまいます。
ぎゅ、と目をつむってノーマンが思い切ってドアを開けました。瞼の裏側にも、さああああっと明るい光が刺しておそるおそるノーマンが目をあけます。
そこは、普段ならノーマンが夢にみるほどのお部屋でした。世界中からショオンが集めた魔法の宝石や鉱物が高い天井までびっしりと隙間ないほど並べられた棚にいっぱいいっぱいに収まっていたのです。
まばゆい光が天井でオーロラのように色を変えて漂っています。
「しょおおおおおおん!!!」
いつものノーマンなら何十分でもうっとりとみていられるほどの光景でも、ノーマンはただ叫びます。
「しぉおおおお…!どこですかーー!」
部屋に走り込んで、どかんと棚にぶつかります。
そうしたなら、ドミノのようにばんばんと棚が連鎖して倒れていきます。
ひゃうん!とそのすさまじい様子に子犬が吠えて、おししょうは絶望に唸ります。
宝石が天井から崩落してくるただなかで、魔法に守られたノーマンは手放しでおいおいと泣き始めました。
とうめいな殻をすべって小さな岩ほどはあるエメラルドの塊がノーマンの足元に転げ落ちてきて、金剛石にぶつかって火花を散らし、クリスタル同士はぶつかりあって割れたり結合したりとさまざまに姿を変えていき、ダイヤモンドは空中で何回転もしはじめ、その向こうでは無限連鎖めいて棚が倒れ続けている要は地獄のふたをあけたような騒ぎだったのです。
けれど、ノーマンは。
そのただなかでおいおいと泣きながら大魔法使いの名まえを叫んでいたのです。