Largo

 喉が渇いたからちょっと飲み物を買ってくる、そうキスと一緒に言い残して酷く明るい天然のブロンド頭が遠ざかるのを、ひらりと手を振って見送り。ふい、とウォレンが右手に刻まれた小さな星型に眼を落とした。
『You're my prettiest star(あなたは一番のお星様だわ)』
 歌うようにそういつも一人息子に言っていた母親が、父親の下で働いていたまだ随分と若いメカニックと一緒に居なくなった頃にいれたソレ。
 プレップスクールの頃から随分と周囲に甘やかされていた、なにも自分のことなど知りもしないだろう人達から。だから顔で食えるかと、ハイスクールの途中でハリウッドを目指して偶々そのときに付き合っていたガールフレンドとロングドライブに出かけ。途中のモーテルでその子は置き去りにした。忘れてしまえるほどのなにかとても些細な理由で口論になりそのまま置いていったのか、それともただ単に細身な彼女の身体に飽きたのか、理由さえもうわからない。どうでもいい事柄のヒトツとして記憶の底に埋もれていた。自分とわかれてすぐにそのコは何かの事件に巻き込まれて死んだようだったけれど、ウォレンには関係のない話だった。どうみても弁護士には見えない男がそれから随分と経って「事情」とやらを聞きにわざわざ刑務所まで面会にきたから、そのときになって始めて思い出したほどだ、だからなにも話すことなど無かった。
 一人、ロスで暮らしている間にわかったことがあった。役者になるにはどうやら忍耐が必要だ、という事実に。オーディションとスクリーンテストの繰り返し、エージェントへの優先順位のつけ方。それで辞めた、自分に適性があるとは思えなかったから。
 じゃあ、というのでモデルをしてみた、―――――家賃と飲み代に十二分なくらいは稼げたが、役者以上に忍耐が必要なことがわかってきた、だから辞めた。オーディションがどうやら性に合わない、これは致命的だよな、と。
 短時間で適当に稼げて、しかも忍耐力は要らない、となれば選り好みさえしなければハリウッドにはいくらでも働き口があった、例えば「エロティックな」ヴィデオ。エージェントから電話がかかってくる、大抵オーディションなど名ばかりですぐに「役」が決まった。
なるほど、ここで必要なのは「記号」なんだなとウォレンは思った。白人、20代、男性、髪の色はいくらでも変えた、望まれる記号の通りに。ロマンチックな記号をつけたがる監督もいた、例えば、「攻撃性のある美しい青年」だとか。「瞳に翳りのある美青年」だとか。それを聞いたときには大笑いした。ナルホド、まだおれはその手の見栄えではあるのか?と。
 気儘にシゴトをこなしていって、そこそこ満足した。けれど何本目かの撮影のとき現場に引き出された相手役というのが、どうみてもロウティーン、それも双子だった。そもそも自分にモラルの持ち合わせは大して無かったし、問題はないかとも思ったけれど。忍耐力はいらないかわりに、根性がいるらしかった、カメラの前でのレイプごっこは実際げんなりだった。自分より弱いものを泣かせて喜べるほど性癖はまだ堕ちきってはいないようで、内心でウォレンは苦笑したけれども。そして、うぜぇシゴトだなとその撮影で見切りをつけた。
 適職をそれからしばらくして見つけた。働く誰かと一緒に住んで一緒のベッドで眠ること。これが一番長続きした。簡単にいえばヒモ。有体に言えばコンパニオンもどき。いっそ天職かなとも思った。相手のヒトはしょっちゅう変わったけれども、アタリマエのように。
 けれどそのうち、息が詰まってきた。誰もが自分に首輪を掛けたがる、クソクラエ。それで辞めた、自主的に。
 丁寧にそれぞれの雇用主との縁を全部切ったつもりが、結局一番性質の悪いヤツに逆恨みされてロスを離れた。別れ話のどさくさに紛れて無抵抗だったおれの腕をヒトに折らせるってのはどうなんだと今でも思う。てめぇで痛めつける度胸もないクセに、あいしているのに、と大の男が泣き喚いてそれでも暴力に訴える、それはもうみっともないサマだった。オンナの方がいいな、もっとあっさりしてる、と体の中を伝わる嫌な音、骨が折れる音だった、それを全身で聞きながら思っていた。オンナとわかれる方が簡単だ、プライドがまがりなりにもあるから、と。それが天職を通して学んだことだったかもしれない。
 それで、行き場も無くなりカネもついでに底をついたから家へ戻れば、父親は相変わらず萎びていて見るだけで気が滅入った。
 ハイスクール時代の知り合いと会う内に、そいつらが。何回めだかにあったときに、知り合いのパーティーに顔だけ出すから車でちょっと番をしていてくれ、というのでカンタンに請け負って、ドライヴァーズシートでウィードを肺に吸い込みながら連中を待っていたなら、そいつらが『パーティー』から出てきたときはアラーム音と銃声付きだった。サイアクだ。
 オマケに、自分は知らない間に21歳になっていた。誕生日のことなどすっかり忘れていたから、警察署で年齢を言われて驚いた。少年刑務所どころか、チンケな窃盗罪幇助で馬鹿馬鹿しくもプリズン行き、洒落になりもしなかった。おまけにバカな知り合いがヒトを撃ったらしい、それも警官。完璧にアウトだ。情状酌量の余地もさほど期待できないことになった。

 オレンジのツナギをしばらく着て、模範囚な上に初犯ってことで随分と早めに釈放されたけれども、もちろん『仮』で『保釈』だからクソみたいな『実家』にそれでも一年は『暮らした』。
 380日目にヒッチハイクをして、適当に州外に出て。この……ド金髪の北欧の子たちに拾われたのは……何日前のことだったかよく思いだせない。
 どこかのインターステートで、目の前でクルマが止まって。スゥエーデンだかデンマークだかの北欧アクセントの英語、それを喋る女の子が二人、『ロックフェスティバルに行く?』と聞いてきたから、『あぁいく、』と答えた。それが、どうやらコレらしかった。
 音楽は、別にウォレンの生きてきたなかで何の意味も役割も特に無かった。ドリンクを買いに出かけたマリと、野外ステージのどこかで踊っているイズーにとっては、わざわざ北ヨーロッパからアメリカまでやってくるほどのことらしいけれども。

 むしろ、ウォレンの耳にはスラング交じりで妙にぎらついたリリックのちりばめられた、『ブラザー』どもの音の方が育ちからしても近かった。特に、塀の内側に入ってからは。
あの金の嵌った歯で噛まれると痛ェけどな、とちらりとどうでもいい記憶が尻尾を出しかけ、それを忘れた。
 イズーが呼んだ気がして一瞬周囲を見回した。見当たらない。
 あれだけカンペキに近いスタイルの女がいればすぐにわかるはずだから、空耳なんだろうと思いなおし。いつまでたっても戻ってこないマリに舌打ちする。自分が知らない間に僅かずつ、人波に乗ってマリと分かれた地点から遠ざかっていることなど、ウォレンの意識には皆無だった。熱狂するヒトの壁の中で急に嫌気が差してきた、なにもかもに。このアホみたいな寒空の下で、このバカどもは体から湯気を出して飛び跳ねてやがる、その足元に在るのは焼けた鉄板だとでもいうように。ふぃ、とイメージする。コイツラがもし地獄とやらに落ちたなら、永遠に飛び跳ね続けるんじゃないだろうか、と。それにしても、地獄で聞かなくてもこれはいい音かもしれないけれど。耳に残る、気に入った。飛び跳ねてる誰かを捕まえて、バンドの名前を聞いてもいいかもしれない。
 すこしばかり気分が上向き、ウォレンは視線を周囲に流した。そして。
 あぁチクショウ、と内心で毒づく。ヒトを誰かを探すなんてことはキライだった。子供の頃に一度だけソレをして、ただの徒労に終わったから。保護された警察署にガキを迎えに来たときの父親の顔を覚えている、あれはまるで―――――
 ここらであの子達とも切れ時だな、とウォレンがヒトの壁の狭間で頭を軽く横に振った。三人で寝るのはまぁ楽しかったけど、それも別にどうでもいい。いずれにしろ、このフェスが終われば近くの空港かどこかで分かれて、もう一生あう事だってないような相手だ。
 三人で泊まっていたホテルの部屋に置き放しの身の回りのものなど、いつ棄てても無くなっても構わないものばかりだった、持ち合わせているIDやキャッシュの他は。身軽に漂流している、そんな生き方をしているのだから。生きるも死ぬも運次第な。
 そうと決まればロックフェスティバル、とかの会場に用は無い。
「うるせぇだけだよ、この音」
 もうさっきまでのバンドとは違うらしかった。ロックに興味の無い自分でもちゃんと聞けていたソレとは違って、耳障りに低音ばかりが今は響いて不快だった。
「ヘイ!!マリ!イズー!おれもう帰るから!!」
 一応、音に塗れて声を上げ。それもすぐに掻き消える。
 オーケイ、これで義務は果たした、バイバイ。服とメシとおこづかいとゴキゲンなファックをありがとう、良いアメリカの思い出になれますように。サヨウナラ。
 ウォレンは十字を切り、ぶつかってくる肩を押し退けながら歩き出した。

「マジでこの音うぜぇ」
 口許をへし曲げ、足早に進もうとしても目の前に8人分ほどの壁があり。舌打ちして立ち止まったとき。ぐい、とイキナリ右手を引かれた。
 まったく予想もしていない方向から腕に力が加わり、ウォレンがぎくりと肩を揺らし。すぐにけれどもオンナノコのうちのどちらかかと思い当たって振り向けば。カンペキな他人がいた。
 ヒトの腕を掴まえているくせに、妙に驚いた風な表情を浮かべた――――多分、それほど自分と年齢の違わない男。
 鬱陶しそうに落ちた金色の前髪がライトと空の所為で奇妙な色に見えた。ゴールドダスト、それか、埃の中でちかちか光って見えたなにかの粒。そんな色味だった。
 ナンダコイツ――――?
 そいつが口を開いて、言った台詞が。なに?だった。
 こっちが、何?だよ、アンタ。
 そう返すつもりが、気が変わった。ヒトのことを検分でもしているみたいな目が、生意気そうできれいな色をしていた。声にしても、耳にすんなりと入り込んでくる。いま、流れている雑音の元凶とはエライ違いだ。
 自信と不安と投げやりなニュアンスが全部交じり合った声と表情と態度と。なんとなく、気に入ったから、コイツの意図がファックなら別に乗るか、とすんなりと決め。したいのかと聞いたなら、あっさりと受け流された。
 いい加減だ、おもしれぇ。そのくせ、ヒトが“クリーン”か、と来た。ますますおもしれぇ。こいつ、バカなのかまともなのかわからねぇよな。どっちもか?
 ジャンキーでも、病気持ちでも、適職が適職だっただけに心配なかった。身体がシホンだ、何事も。
 塀の中でも突っ込まれたのは奇跡的に一回きりで、後はソイツのを咥えてやっていれば問題なかった。そのスキンヘッドの禁固何十年だかのオトコは妙にロマンチストでヘンな詩を寄越したが、一応はボスだったらしいから他のインメイトからは余計な手出しはさほどされなかった。そのスキンヘッドもクリーンだった、よって現時点では問題なし。
 ははは、おれは適当にラッキーならしい、と高を括って。アタリマエだ、クリーンだよ、と返し。掴まれたままだった腕を引き上げた。
 ファックに恵まれているヤツ独特の余裕で、してもしなくても本当にどうでもいい、とポーズじゃなく言ってくる態度に久しぶりにオトコとしてもいいかもなァ、と決め。オーケイさっさとしちまおう、別にデートゲームがしたいわけじゃねぇし、と態度で持ちかける。
 唇を舌で濡らし簡単な意思疎通、そしてそのまま連れ立って歩き出すかと思ったとき人の壁に囲まれた真ん中で唇が押し当てられて、ウォレンが僅かに眼を見開いた。
 おい、チョット待て。ンなとこで冗談じゃねぇ。アホか、おまえ。
 そう思う間にも、唇の狭間を舌先がつるりと滑り込んでき、ウォレンが瞬きをした。歯を噛み合わせて、唇を割ってくる舌がこれ以上入り込むのを押し止め、唇を浮かせた。

「何考えてる、」
 囁き声にまで勝手に声のトーンが落ちる。
「You're still interested?(まだ興味あんの?)」
 同じように落とされたトーンの声が奇妙に間近に聞こえる気がした。
「興味なんかハナっから無いヨ」
 言い返す。くぅ、と眼を細めるようにして笑う相手の顔を見詰めながら。
「Then you wanna call it off?(じゃあヤメとく?)」
 声に笑みがますます含まれてくるのに、ウォレンが腕をぐ、とまた引き上げた。
「Release ME first, if you say so(そういうこと言うならアタマっからおれの腕離せよ)」
 に、と笑いかける。
 するりと手が離されていくのに、ウォレンが口許を吊り上げる。
「No offense(悪気はない)」
「ふぅん、」
 さらりと返された言葉に、すい、と鼻先がくっつくギリギリまで顔を近づける。
「あんた、ビジンなのに妙に自信喪失中?」
 言って、ぺろりと舌を伸ばして相手の唇を舐めた。
 ぱち、とブルーアイズが瞬きするのを間近で見詰める。鳶色の睫がきっちりカーブを描いているのが解る。
「オレのファンじゃないのに付き合わせるのは悪いと思うよ」
「ふぁん……?」
 今度はウォレンが首を傾げた。じいいっと相手を見詰める。
 テレビで見た顔では無い。映画でも見た顔でも、写真で見た顔でもない。
 どこか見覚えがあるけど、オーディションで顔をあわせたこともなかったはずだ――――ここまで考え、ん?と視線を僅かに彷徨わせた。そして。
 ぱん、とウォレンが思わず自由になった手を合わせた。クリックした、脳が。
「どっかで見たと思ったら、あんたさっきステージにいたんじゃん」
 あーあ、なんだそうか、と曖昧な印象が解決された所為で、他意なくウォレンがわらった。それは素の表情にとても近いものだった。
「カワイクナイノ」
 そう呟いた相手の目は笑っていた。
 そりゃそうだろう、とウォレンが嘯いた。
「カワイイのはツラだけにしてるンで」
 言いながら、少しくすんだブロンドを手指に握りこんだ。
 目の前で、少し困った風に笑みを刻んでいく相手をじっと見詰める。ホテル、あっち。と、顎で示してから、眼が訊いてくる。「どう?」と。
「またオーケイーって言うのかよ、あーあー」
 そうウォレンがぼやき。
「あんた、めんどくせえ」
 そう噛み付くように言った。
「面倒ごとはキライなんだ」
 そうしたならコドモめいた口調で告げられた。だから念押し、と言い募る相手に、肩を竦める。
「よっぽど痛い目みてンね、あんた」
 そして。
 オーケィ、ロックスター。ファックしようぜ?オレと。そう言って、仕返しとばかりに短いキスを仕掛けた。





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