―3―
サンジが小さく首を傾げた。
「……ゾロ、」
「Yes?」
「オレはどっちにより驚くべきなのかな…?」
夏空のように澄んだ青が見あげてくる。
真っ直ぐに、少しの恐れも見せずに。
理解はしている、けれど何の判断も下さない双眸は、穏やかなまま揺らがない。
「ゾロは前に…ファミリには入ったことがないって言ってたよね…?」
「ああ」
「ってことは…ああ、ファミリに生まれたんだ?」
「ああ」
すう、とサンジが考え込むように眉根を寄せた。
「ご両親どちらかの職業がそうだった…?」
「そうだ」
サンジがゆっくりと目を閉じた。
「……オレはね。娼婦の私生児として生まれた。オレがストリートに立つ男娼にならずに済んだのは、周りがみんな止めてくれたからだ。"ワタシは仕事に誇りを持っているけれど、他にできることがあるならそちらを選んだほうがイイ。身体を売ることは簡単すぎるから"って言ってくれてた。"カラダを売ると手っ取り早く稼げる。だから簡単な出口みたいに思えるけど、本当は地獄への長い入口にすぎない"ってね。オレは金を貰うために誰かと寝たことはないけど……眠るための部屋と腹を充たすためのゴハンを貰っていたことはあった。だから…」
だから、職業としては男娼ではなかったけれど。実質的にはそうそう変わらないかもしれない。そう呟くように言って、サンジが小さく笑った。
「オレは娼館で育ったって前に言ったっけ?売春婦ばかりを集めたアパートメント。住んでいる場所に客を連れ込むと警察の手が回りやすいから、そのアパートにいたのはみんな外で"仕事"をしてくるオンナノコたちばかりだった。母や、ママ・ルイコみたいに名指しで呼ばれるようなネーサンもいれば。数人でパーティに呼ばれて、そのまま仕事をしてくるコたちもいた。その中には客が愛人やヒモになる場合もあって」
サンジが小さく溜息を吐いた。
「―――恋愛感情の内、なのかな、あれも。数人の人間とトラブルになって撃たれるコもいれば、麻薬に手を出してオーヴァドースで死ぬコもいた。病気にかかって手首を切ったコもいたし……ある日突然、路地裏で冷たくなってたコもいた。ピンプ・ダディやプッシャーと愛人関係になって、暴力を振るわれる上に稼いだお金を持っていかれるコもいたし……恋人が嫉妬のあまりに乗り込んできて、ヒドイ喧嘩になることもあった。ティアラやルイコや他のネーサンたちは、そんな場面をオレには見せないようにしてくれてたけど…大きくなれば、自然と見えてきちまうだろ?日頃仲良くしてくれているネーサンたちがトラブルに巻き込まれれば、助けてあげたくなる。それだけの愛情をオレは受け取っていたから」
サンジが小さく笑った。俯くと、顔を隠すように金が垂れ落ちていく。
「―――マフィアの中で、オレも育った。オマエとは環境も状況も違うけど。だから……オマエの気持ちとか、決意とか。間違っても解るとはいえない。だけどさ、」
僅かに顔を傾け、青い双眸が合わされる。
「オマエがただ言われたとおりに暴力を振るう人間には、オレには見えない。オマエの目は真っ直ぐで、力強くて、落ち着いていて。無分別に"仕事"をこなして来たとは思えない。オマエがマフィアの人間だということは理解できる。オマエが殺し屋だったということは、そういうこともあるだろう、って具合にしか認識できない。けど、オマエは優しくて、親切で、強くて、イイ男だ。それはオレが身をもって知ったこと。オマエが何であろうと、何であったんだろうと。オレにはあまり重要性が無い」
サンジがすい、と手を伸ばしてきた。
頬に触れる、温かい体温。
サンジが苦笑するように笑った。
「オレは酷い男がどんなものか、本当に酷ェ人間がどういうことができるのか、…知りながら育った。断言できる、オマエはそんなモノじゃない。オマエが何を抱えていようと……違うな。酷い人間は、抱えないんだ、何も。だからもしオマエが、オレのことを巻き込んじまったことに責任とか罪悪感とか感じているなら、それはオマエが負い目に思うことじゃない。それを言うなら、謝るのはオレのほうだよ、ゾロ。オマエの人生に巻き込まれちまってゴメンな?」
さらりと告げられた言葉が、あまりにアタリマエのことのように音にされ。
ゾロは、一度目を瞬く。
耳から取り入れた言葉が、スノードームの雪のように、ゆっくりと降り積もってくる。
ふんわりと、柔らかく優しい言葉。
見詰めてくるサンジの眼差しが持っている温度と同じもの。
初夏の木漏れ日のように、温かくて、優しい。
「―――バカだ」
ぽつ、と。
言葉が勝手に零れ出る。
「オマエは究極の―――バカ猫だ、サンジ」
―――どうしてオマエのような存在が、今オレの側に在るのだろう…?
にひゃ、とサンジが笑う。
どこか照れたように。
「うん、それでイイ。オレはオマエが拾った"野良猫"で。オマエは心優しいゴシュジンサマで。オレはオマエを信じるって最初に言った通りだよ。オマエが何者でもオレは信じるって。それはいまも、これからも、ずっと変わらない」
「バカ猫、オマエ人生損するぞ」
手を伸ばす。
微笑みを浮かべたままのサンジの頬にそうっと触れる。
そこにある熱が、ゆっくりと伝わってくる。
―――なぜ、オマエのような存在が、在るのだろう……?
「―――オマエみたいな存在、オレは他にしらない」
サンジがふわりと笑い、する、と手に懐いてくる。
そして齎される小さな声。
「オレ、側にいたらダメかな?」
「―――な、んで?」
蒼い瞳とかち合う。
「怒らない?」
「…ああ」
「本当に?」
「ああ。なんなら何かに誓うか?」
「あはは!いいよそこまでは」
少し恥ずかしそうにサンジが笑う。
はにかむような笑顔。
「―――オマエの側は、安心する」
「……は?」
「ケド、なんか、うん。オレにはオマエがすごい透明に見える。ちゃんと生きて、笑ってるのに―――時々、空気みたいにオマエ、いなくなる」
「それは―――」
言葉に詰まり、見詰めると。
サンジがまた小さく笑った。
「大学を辞める時。教授に訊かれた。"ミスタ・ローワン、キミはなんのために生きているのですか?"って」
くす、とサンジが笑う。
「なんの為に絵を描いているのですか、じゃなくて。なんのために生きているのですか、ってさ…そんなの、…考えたこともなかった。生きてるからただ生き続けるのかと思ってた。死ぬだけの理由はないし。死んだら終り、やり直しは利かない。だから死なないで生きているってさ」
「…で。オマエは何て答えたんだ?」
ベッドサイドに腰をかけたまま、サンジを見詰める。
さらり、と。サンジが首を傾けた所為で金が揺れていった。
「…"ワカリマセン。死ぬ理由がないからだと思います、"って答えた。そしたら教授は。"その答えが出た時に、キミが絵を描く意味を見出せるでしょう"って言ってた」
すう、と。澄んだ蒼がかっちりと合わせられてきた。
ふわり、とサンジが笑う。
「ゾロもオレと同じ、答えがない人なのは解るよ。本当はその答え、ゾロは見つけたくないのかもしれないけれど……オレは、ゾロ。アナタに拾ってもらって、それを探す機会を得ることができた。アナタは気まぐれだったのかもしれないけれど、オレはアナタに救われた。恩返しってことの程まではできないかもしれないけど―――オレはアナタになにかを返したいと思っている。アナタのなにかになりたいと思っている。オレはアナタを裏切らない、天地天命、この世の総てに誓ってもいい。アナタにとって、オレはただの野良猫で、構わないから」
サンジの手が伸ばされる。
きゅ、と掴まれる腕。
「アナタの側に、居続けてもいいですか…?」
「……ミスタ・サンジ・ローワン?」
「Yes?」
「オマエ、オレを口説いてンの?」
「……は?」
サンジのブルゥ・アイズがすい、と大きく見開かれていった。
「いやな、いままでオレが聞いた口説き文句の中でも最も情熱的に口説かれてるように思うんだが」
ゾロの言葉に、かーっと。サンジの顔が一気に赤く染まっていった。
「く、くど、え…?」
にぃ、とゾロは口端を引き上げる。
「や、身に余る光栄だけどな?」
「ええ?」
大きく見開かれた目。
ぽかん、と空いた口。
かき口説いていた時から比べれば、その表情が酷く幼くて。
ぷ、とゾロは噴き出す。
「すげえ、オマエ猫だまし食らった猫みてェ」
「うわ、ひっでぇ!オレ、すげえマジメに言ってたのにっ!!」
ぎゃん、と噛み付くサンジが、酷く慌てていて。
ゾロは溜まらず、笑い出す。
「あっはっはっは!」
「ぞ、うーわ、くっそ、ムカツクオマエ!!」
「や、悪ィ」
「だったら笑ってンなよッ!!」
あーもう信じらんねぇ、もういいよ、オマエなんか勝手にしろ、そう言って布団の中に突っ伏したサンジの背中に手を置く。
衝動、オマエを失くしたくないという想いが湧き上がる。
見逃さなきゃいけない感情。
見過ごすべき衝動。
「サンジ、」
「なんだよッ」
「悪い」
「だからっ」
がば、と布団を跳ね除け、睨み上げて来たサンジの髪を梳く。
「オマエはもっと、見つけられるだろう?」
「…ゾロ?」
「図に乗らせンな、手に入れちまいたくなるだろう?」
「……っ、」
サンジがふわ、と目元を赤く染めていた。
酷く、甘い表情に思える。
ゾロは小さく笑った。
オマエはちゃんと"明日"と向き合って生きろよ、と。呟けば、サンジがはた、と目を瞬いた。
「―――――眠れるか?」
「…え?」
「ちゃんと眠れそうか?」
「…あ、うん」
こく、と頷いたサンジの髪をもう一度くしゃりとしてから、手を放す。
「ならほら、ちゃんと横になれ」
「あ、うん。ゾロは?」
「あー…寝る」
「わかった。ハイ」
サンジがトントン、と隣を叩いてきて笑った。
「オマエなァ」
「え?」
そのうち喰っちまうぞ、という呟きは、音にはしなかった。
「……まぁ、いい。なんなら抱いて寝てやろうか?」
「え?いいの?」
「は?」
「や、うーん…なんか、ほら。人肌って安心するだろ、」
サンジがまた顔を赤らめていた。
「オマエ、マジで平気なンかよ、」
ぷくく、と笑ってサンジの隣に横になる。同じレヴェルで目線が合う。
サンジが小さく柔らかな笑みを浮かべていた。
「や、わかんねー。オレ父親いなかったし、いっつもネーサンたちに抱かれて寝てたから。実はオマエが最初」
「はーン…」
「周りにオトコは多かったけどナ、オレの家に来るのはティアの仕事絡みでくる連中ばっかりだったし、アパートメントに来る連中は…ワカルダロ」
「ああ、マフィアな」
ゾロの返事に。くしゃん、とサンジが顔を歪めて笑った。
「学校だと娼婦のコってだけで苛められるからなぁ…ケド、ママ・ルイコが"ゼッタイにヤラレんじゃないわよッ"ってオレに言い含めてたからナー…」
「ふゥん」
「ブロンドにブルゥアイズ、なんつったら。顔の造りなんか結構アレでも、ビジンの代名詞ダロ、あっちこっちから目を付けられて、ついでにセンセイにも目を付けられて……あー、やめよう。ブルゥになる」
ぽて、とサンジが枕に頭を突っ込んでいた。
"疲れ果てた野良猫"。
「すげぇな、オマエ」
「…ん?」
「それでも、オマエ。すげえ真っ直ぐ」
「…そっかな」
サンジがくるりと枕の中で姿勢を変えた。
ブルゥアイズと向かい合う。
「喧嘩もしたんだろ?」
「したした。ガンで脅されたことも、ナイフ突きつけられたこともあったけどナ…不思議と自分に向けられている間は怖くないんだよな」
「猫なのにすげェな」
ゾロのコメントに、ぷっとサンジが笑った。
「そりゃ固まっちまったら、ヤられるしか無ェもん」
ふわりと笑うサンジの頬に指を滑らせる。
なんだよ、とでも言う具合に、サンジの目線が和らいだ。
「―――オマエに傷が付かなくてよかった」
「…ゾォロ、オマエね」
「見なくてもいいモンまで見せちまって、ゴメンな」
「だぁから。オマエがそこで罪悪感持つな。オレから巻き込まれたんだから」
オマエに拾われてなけりゃ。オレはもしかしたらとっくにハドソンに浮かんでるか、どっかの部屋で薬漬けにされてカラダ売らされてたかもしんねーんだから、と。
酷く穏やかなトーンでサンジが呟き、それからまた小さく笑った。
「オマエも手の掛かる猫を拾っちまったな、ゾロ。感謝してるし、オマエをゼッタイに裏切らないから。だから本当に邪魔ンなったら、安心してオレを捨てていけよ」
「…さっきの言葉と矛盾してないか?」
「オレはさ、オマエの荷物にはなりたくねェの。野良猫だから、ちゃんと生きていけるさ。ただ…」
「…ん?」
「…………いまは、オマエと一緒がイイ」
ゆらりと目線を揺らし、答えを選んだサンジが、目を閉じていった。
ゾロはゆっくりと息をした。
溜息にも似た吐息。
どこか深いところで、内心が揺らいだ。
「…サンジ、」
「んー…?」
「ほら、胸貸してやるよ、」
「……ふは、」
サンジが僅かに笑って、目を開けた。
に、と笑いかけてやる。
「魘されたら起こしてやる。それでオオケイ?」
「ん。ごめんな、ゾロ」
「いや、守りきれなかったオレの責任だ」
目を見詰めて言えば、サンジが小さく苦笑した。
「だぁから」
「だからせめて、悪い夢くらいからは救ってやる」
サンジが一つ息を吐いた。
「……よろしく」
「電気消すぞ」
「んー…」
もぞもぞ、とサンジが動いて。ぺたり、と引っ付いてきた。
片腕をサンジの下に残したまま、手を伸ばしてライトを消す。
ふう、とサンジが息を吐いていた。
「…腕枕されンの、初めてだなぁ」
「首が痛くなる前に、適当に位置変えろよ」
くく、と笑った金色が、胸元に顔を埋めた。
「…あ、オマエ、いい匂い…」
「さっきシャワー借りた」
「……ん…ゃすみ…」
くぅ、と寝息が洩れる音が聴こえ、ゾロはサンジの寝つきの良さに低く笑った。
目を閉じて、柔らかな猫毛に鼻先を埋める。
柔らかい、良い者。
日差しを浴びていないはずなのに、どこか日向の匂いがする気がした。
「オヤスミ、サンジ。悪い夢が来ないといいな」
呟いてから、呼吸を整えた。
誰かを抱いて眠るのは、―――確かに、酷く安心する行為、だ。
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