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「で、なにをしよう」
目覚めた野良猫が、くああ、と暢気に欠伸をしながら訊いてくる。
「オマエは何がしたい?」
問い返せば、んー、と間延びした返事が返ってきた。夏の空色の瞳と目が合う。
「特になにってのはないかなあ。オレ視力が悪いからネ、テレビゲームとかはすぐに草臥れちまうし。なんだろ、オマエと一緒にテレビ見てたり、オマエが基礎トレーニングしてるの見てたりするのだけで結構楽しいんだけど」
「へぇ?」
「ん。ナンデモナイコトを一緒に誰かとやるってこと、オレの経験にはないからさ。チビの頃は独りだったし、学生の頃は課題やってるか寝てるか家事してるかだったし、ヒモだった頃はマスタのためになにかをしてたし」
さらりと言い放って首を傾げたサンジの髪を掻き混ぜる。
“不遇な過去”をそうとは思わずに受け入れている野良猫の強さに感服する―――何度目かの感想。

「オレが部屋を空けてる時、オマエなにしてたんだ?」
「んん?凝ったスープストックを作ったり、レシピの本読んでたり、シェイカ振る練習してたり。オレ眼鏡が手許にないから、直ぐ目が疲れて寝ちまってたりしてたから……思えばあっという間だったなぁ」
ふにゃりとサンジが笑った。きらきらと光りの欠片が零れるように。

「眼鏡、落ち着いたら作りに行こうか」
「―――マジ?」
ぱちくり、とサンジが瞬く。
「ああ、マジ。暫くオマエも外出てなかったし。この家を出たら、少し外に出よう」
「…いいの?」
じぃっと潤んだような青が見詰めてくる。
「あァ、構わねェよ。オマエが来る前は、オレも結構出歩いてたしな」
「ふゥん?何してたンだ?」
こくん、と傾いたサンジの頬を突付く。
「気が合うオンナ探しに呑みにだとか、演劇見たりだとか」
「へえ!前半はともかく、後半は意外だナ」
ブロードウェイ通い?とサンジが笑う。
「せっかくシカゴから出て来たしな。どうせなら本場で観るのも悪かないと思って、結局なんだかんだいって色々見たさ。オペラも観たし、ジャズバーも覗いたし、バレエも観た」
「うーわあ、いっがい!!」
ケラケラとサンジが笑う。
「オペラとバレエは自主的に?それとも」
オンナノコに誘われた?と、にぃ、と口端を引き上げて笑ったサンジの髪を掻き混ぜる。
「ご明察。頭イイな、オマエ」
「あはははは!褒められた気がしないよ、ソレ」

ひとしきり笑ってから、サンジがくてん、と枕に頤を落としていた。
「―――ゾロが見てきた中で、世界で一番キレイだと思ったものは?」
甘い囁き声のような声。
画家としての興味心か?と訊けば、そういうわけでもない、と小さく笑いが返ってきた。
「……そうだな。イタリア人の血筋丸出しで答えてもいいなら、“マンマの笑顔”かな」
くすっと笑って答えれば、ふにゃりとサンジが笑いを返してきた。
「…ゾロのお母さんはビジンそうだよね」
「あー…情熱的でかわいいオンナだったよ。物怖じしない、芯の強いオンナ。でもって、優しく厳しかった」
胸の奥が痛む、死に顔を思い出す、いつでも覚悟していたその最後の瞬間を、生涯愛し愛された男の腕の中で迎えられた喜びに満ちた笑顔……聖母よりもキレイだった。

うん、と静かにサンジの声が響いた。
「オレも答えるなら、おかーさんの笑顔、かな。……ティアラはね、オレのハハオヤなのにいつでもオレより小さなオンナノコみたいな笑顔で笑ってたんだ。でもオレの前でだけ、おかーさんの笑顔になる。オトナの顔になる。キラキラしてて……大好きだったなぁ、おかーさんの笑顔見るの」
ふにゃり、とサンジが笑顔を向けてきた。柔らかで、どこまでも優しいカオ。
「で、次にキレイだったのが、ママ・ルイコの笑顔。オレの初恋のヒトで、オレを大学にまで入れてくれたヒト。ティアラの親友でもあってね、……強い人だったなぁ。ティアラより年下だったけどね、オネーサンみたいだったよ。彼女たちが笑い合ってるところを見るのが、すごく好きだった」
ころん、と横になり、サンジが胸の上で手をきつく握った。
「―――天国で、また出会えてるかなぁ……」

小さな呟きと共に、ほとり、と小さな雫が淡い色合いの肌を転がり落ちていった。
音も無く、枕に吸い込まれていくソレ。
キレイな想いの結晶。

「―――うわ、ゴメン。なんで今頃泣いてるんだろ、オレ」
ごしごし、と目許を擦ったサンジの手を捕まえる。
「泣いとけよ」
「ゾロ?」
「泣いてやれるのなら、泣いてやれよ」
泣き濡れた青のまま、ふにゃりとサンジが微笑んだ。
「葬式でも泣かなかったのに、今頃、だよ…?」
強がりの笑顔を、胸元に隠す。
小さくサンジの肩が強張っていた。その背中を掌で撫で下ろす。
「オレも両親が死んだ時泣けなかった。今も、な。だから代わりに泣いといてくれ」
「―――ふっ、ソレ、オカシイよ…」
小さくサンジが笑う。
「別に、オカシクテモ構わねーよ。オレとオマエの間だけでのことだし」
「……ふふ、そうだね。そう…」

ぎゅ、と腕が回された。サンジの身体が小さく震える。
頭を抱え込んだ胸元、嗚咽を飲み込む音が聴こえる。
背中を何度も撫で下ろし、金の髪に口付ける。
熱い雫が胸元を濡らしていき、その熱が心の奥深くに在った傷を優しく撫でていく。
ふわり、と和らぐ心内。
けれどそれと同時に思う、同じような悲しみを与えることになるだろう未来を―――もしかしたら、一番酷い傷に成り得る“別れ”を。

死ななければいいのだ、と頭のどこかで奮起する。
それと同時に、それの訪れが免れようもなく到達する未来であるという現実が目の前をちらつく。
タイムリミットが解らない―――抗うことを止めた瞬間が、きっとデッドラインではあるのだろうけど。
けれど、その時までに。
この優しい良き者を、愛しんで。大切にして。
また一人で立てる強さを得られるよう、傷を少しずつ治してやって。
一人になっても、柔らかな笑顔でいられるように、沢山の思い出を作ってやって……。

「……ゾロ、」
静かな声が胸元から響き、そうっと腕を緩める。
「ティッシュ取って」
半分笑った声に金色の髪を掻き混ぜ、ベッドサイドにあったボックスから三枚程抜き取って手渡す。
アリガト、と声が響き。それから鼻をかむ音が続いた。
「ゴメン、Tシャツ、思い切り濡らしちった」
僅かに赤くなった目で覗き込まれ、微笑を返す。
「構わないさ」
「―――やさしーね、オマエ」
ふにゃりと笑ったサンジに、肩を竦める。
「下心があるからな」
「へえ?」
くすん、とサンジが笑って起き上がる。
「オレになにして欲しいの?」

青を覗き込んで笑いかける。
「別になにも」
「なにもないなら、下心持つ必要ないじゃん」
可笑しなヒトだね、と笑ったサンジの胸の上をトンと突く。
「強いて言うなら、そこがどんな風なのかを見てみたいかな」
「んん?―――内臓、って意味じゃないよな」
「違うな」
「んー?……オレの心の中が見てみたい、ってコト?」
真っ直ぐに見詰めてくる青に、笑みが零れる。
「そう。さっきみたいに」

「―――ゾロ、」
目を僅かに見開き、サンジが何かを言い掛け。それから言葉を飲み込んでいた。
「なんだ?」
「―――その笑顔、反則、だと思う……」
「はン?」
「うわ、なんで…ッ、ちょ、待ってな?」
リネンを握り締め、一人でサンジが、うう、だとか、ああ、だとか唸っている。
頬が僅かに赤い。
「サンジ?」
オマエどうした、と俯いた顔を覗き込めば。
どこか困ったような顔をして、サンジが見上げてきた。
「―――なんだよオマエ、そんな優しい顔で笑うの、本当は」
「……は?」
「いや、いっつもニヒルでドライな感じで笑ってたから、そういうヤツなんだ、ハードボイルドを地で行ってるヤツなんだ、とか思ってたのに……なんだよ、その顔。すんげえ甘くて優しい顔もできるんじゃん…」

……甘くて優しいカオ?
「誰が?」
「オマエ。ミスタ・ジャズ・ピアニスト、ロロノアくん」
真っ赤になりながらも、どこかまだ潤んだ瞳でサンジが見詰めてくる。
「初めて言われたな」
「―――マジで?昔付き合ってたオンナノコとか、見惚れてなかった?オマエに」
「ないな。思春期を迎えてからは、ヤサシクナイ、ツメタイ、ドライ、儀礼的、ココロがミエナイ、そういう感じで言われ放題だったぞ」
「―――見る目のない人ばっかりだったのかなぁ…」
むむ、となにかを考え出したサンジに、肩を竦める。
「多分、そういう風にしか付き合ってなかったんだろ、オレが」

酷く哀しそうな顔で、サンジが見上げてくる。
「―――なんだよ」
「ヤ、っつかさ。オマエのそんな笑顔を見るの、オレだけかと思うと申し訳なくって」
「なんだそりゃ」
「ええ?だってさ、オマエってばハンサムだし、カッコイイし、ぴしっとハードでクールだし、やさしーし……オレがオンナなら間違いなく惚れてるのになあ、って思ってさ。でもオレ男だし、紹介できるような女友達もいないし、親戚筋なんかもっと絶望的だし……もったいないなあって」

ふに、とサンジの頬を緩く摘む。
なに、と青が問いかけてくる。
「少なくとも、オレにそういう顔をさせてるのはオマエなんだから、オマエが見るだけで充分だと思うぜ」
「―――へ?」
意味がわからない、と見上げてくるサンジに、にぃ、と笑いかける。
「オレがいいっつってンだから、思う存分堪能しろってこと」
「う?」
「ふふン。考えやがれ」

まだ戸惑った顔で見上げてくるサンジの髪を掻き混ぜてから、ベッドから降りる。
「さぁて、掃除でもするか」
「あ、ウン。家具とか全部埃落としておいてあげよう」
慌ててサンジも起き上がり、反対側に降り立った。
「―――ゾロ」
「ん?」
「今日は晩御飯に何が食べたい?」

戸口に向かいながら答える。
「ストックと相談だな。一緒に考えようぜ」
















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