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好きな相手と一緒に居るだけで楽しい。
そんな初歩的なことを、この年齢で思い知るとは思わなかった。
安全を一応は約束されている“他人の家”。
入室が許可されている部屋にある家具の総てを暇に任せて外側だけ磨き上げる。
案外大雑把なサンジに、「うーわ、結構神経質?」と笑われる度に「埃が残ってたらハハオヤににっこり笑顔でダメ出し食らい続けてきた習性」と軽く返しては、刺さった棘が疼くような小さな痛みと過ぎる思い出の数々に静かに浸っていた。
それは家族を“火葬”してから初めて穏やかに出来たことで。そんな所は敏いサンジは、ワックスを染み込ませた布を動かしながら、記憶の波が過ぎて“こちら側”にゾロが戻ってくるまで柔らかな沈黙を保ったままでいた。
そんな優しさが、今は素直に愛しいと思う。同情されているのではなく、一人で思いに耽る時間を大切にされているということが解る。
夜には棚に並べてあった古い市販のヴィデオやDVDを再生していき。
家主から“どれでも好きなだけどうぞ”と許可を得ていた酒類を、相変わらず酔っ払うのが早い割には好奇心は薄れないサンジと分け合いながら片っ端から片づけていった。
古いイギリスのミステリィドラマとウィスキィ。
小さなオンナノコが好むようなファンタジィ映画とラム。
ディスカヴァリ・チャンネルの歴史特集と若いけれど良い年のワイン。
近未来SFサスペンスと缶ビール。
コスチューム・プレイの宮廷ゴタゴタ劇とジンライム。
アーリィ・アメリカのラヴ・ストーリィとブランディ。
大戦物のアクションとウォッカ。
シェークスピアとカンパリ。
クロサワと日本酒。
戦闘シーンで血飛沫が飛ぶ度に、サンジが何気ない顔で顔を背けていた。
もしくは注がれた液体に意識を移し、一気に呷ることもあった。
黙って胸元に引き寄せれば、小さくクスクスとサンジは笑い。柔らかく髪を撫でてやれば、そうっと見上げてきて、大丈夫、と目で告げてから視線をモニタに戻していた。
リハビリだね、と小さな声で呟いたのに、一生映画が見れないのは辛いだろ、と返し。
他にすることもないし、でもオレがこのポジションに居るのは不思議だ、と小さな呟きは腕の中で落とされ。
二人きりだ、気にするな、と返せばまた柔らかな笑いが返事として返ってきた。
眠るまで、映画か酒についてコメントを交わしていき。映画は暗くした部屋の中で流したまま、サンジはそのまま腕の中で柔らかな寝息を立て。
エンドロールが流れて終わってから、総ての電気を落として、サンジを抱えてベッドに戻る。
そんな穏やかで、どこかくすぐったいような日が4日続き、五日目。
電話での短い遣り取りを経てから現れたのは、赤い髪の“世話人”だった。
開口一番、荷物纏めろ、が命令で。
粗方キレイにしてあった家の最後の掃除をしてから、礼の手紙をサンジが認めている間に、ゾロが少ない荷物を一つのバッグに纏めた。
「オマエら何してたんだ?」
くっくと笑って空になった酒棚を見ていたシャンクスに、サンジが嬉しそうに報告する。
「家具を磨いて、掃除機かけて。一緒にレシピ見ながら料理とかして、それから夜になったらテイスティングしながら映画見放題!」
「テイスティング、なんだな?」
更に楽しそうに笑いながらシャンクスの手が柔らかな金色を掻き混ぜていく。にこお、とサンジの顔に満面の笑みが浮かんだ。
「ゾロがさ、量的にはそれくらいしか呑んでないって」
「オバカチャン、ワクと一緒にするもんじゃないよ」
「ええ?ワク?」
「笊通り越してワクだろうが」
「そうか、ワクかぁ」
に、とゾロのモノより明るい緑が視線を合わせてきた。肩を竦めれば、ちゅ、と柔らかな口付けをサンジの頬に落とし。
「元気そうで何よりだ。次のお家に案内しよう」
二人の巣だね、とどこかからかうトーンで言っていた。
「最初に手負いの狼が住んでた所の家具を入れ替えたんだ。居住区の方のな。下はアップライトだけど年代モノのいいコに換えた。前の店には配管が古くなったから緊急で内装全部を弄る事にした、と張り紙を出しておいた。連絡が入れば新しい店の方に回す手配は調えてあるから、“サテン・ドール”に戻れ」
最初にマツノと出会った場所だ。胸が痛くなる、というよりは飛来した思い出に意識が一瞬捕らわれている間に、す、とシャンクスがサンジを連れて部屋を出る。
「今度の店は“サテン・ドール”なんだ?」
「そう。オマエのギャルソン服もサテンで作らせた。けどお人形チャンになる必要はないからな?」
サンジとシャンクスの間で交わされる会話から意識を遠ざけ、荷物を持って世話になった家を出る。
「ゾロの分もある?」
「バカに制服?冗談だろ。どこの世界に制服を着るミュージシャンがいる」
「えー」
「しかもソロだぞ?バンドじゃないんだぞ?」
「あ」
そっかあ、と笑うサンジの声が、柔らかく耳に届く。
車、停めてあったのはゾロが“アリステア・ウェルキンス”として購入したアストン・マーティン。そしてブラック・ガンメタリックなカワサキ・ゼファ。
ひょい、とシャンクスを見遣れば。クエナイオトナは小さく笑って、750ccのバイクの鍵を放って寄越した。
「オマエがソレ転がしていけ。オレはこっちでベイビィを送ってやるから」
「珍しいな」
「うン?他人の車をオレが転がすのがか?―――ショウガナイだろ、オマエ、本当はオレにだってコイツら触られたくないんだろうが」
ぱちくり、とサンジが瞬く。
「じゃあどうやってバイクはここまで来たの?」
トランクを開けて荷物を入れるように指示してきながら、シャンクスが笑った。
「トラックの荷台に積んできたに決まってる」
「じゃあ帰りは?」
「黒いのが来る。サンジはそういう心配をしなくていいんだよ」
「んー、不思議」
「はン?」
「みんなオレが頭使わなくてもイイって言ってくる」
くくっとシャンクスが笑った。
「お馬鹿チャン。頭は存分に使わないと腐るよ」
「……ぎゃ」
「気遣うな、ってことだ。考えてもどうしようもできないことをオマエに悩んで貰ってもショウガナイだろう?」
「うう」
ちゅ、と。やたらカワイラシイ音を立てて、シャンクスがサンジの頬に口付ける。
「ベイビィはそんなことより、もっと大事なことを考えなきゃいけない筈だ」
「ほえ?」
ぱち、とサンジが瞬く。
トン、とシャンクスがサンジの心臓の上を細長い指で軽く突いた。
「答えはココにちゃんとあるけどナ」
「……にゃ?」
に、と笑ってからシャンクスが、訳がわからない、といった顔をしているサンジからこちらへと視線を投げて寄越してきた。
「ぼやぼやしてンじゃねーよ、狼。さっさと先行きやがれ」
そのからかうトーンに片眉を引き上げる。
「あっち、鍵変えたんだろうな」
ひょい、と別の鍵束も放って寄越される。
「アタリマエだ。コードは解っているだろう?」
「テン・キィ?ああ」
「向こうに着いたらナンバァ変えさせてやる。先行ってろ」
「イエッサー」
戯れで敬礼をすれば、流麗な仕種で中指が立てて返された。
隣でサンジがけらけらと笑い出している―――日差しの中が随分と居心地が良さそうだ。
ゼファのハンドルに引っ掛けられていたヘルメットを外した。
中をチェック―――弄られた跡はない。
黒い機体に跨る。
「オマエ、乗れるんだ?」
ひょい、と覗き込んできたサンジに笑って、ぐしゃ、と金色を掻き混ぜた。
「今度乗せてやるよ」
「うわ、―――ウン」
にこお、と笑ったサンジをアストン・マーティンの方に押し遣り。エンジンを掛けた―――ドッドッド、と心臓の鼓動にも似た音が一発で上がる。久しく転がしていなかった割には機嫌がいいらしい。
ヘルメットを被って、スタンドを蹴り上げた。
一度吹かしてから、ドライヴァズ・シートに乗ったシャンクスがひらりと手を振ってくるのに応えて、バイクを道に乗せた。
サイドミラー越し、サンジがじっと背中を見詰めてきているのを見遣る。
――――ああ、そういえば。ずっとオマエと一緒に居たもんな。
べったり、というわけではないが。他人とここまで親密に過ごしたことがなかったことに漸く気付いた―――オマエが丸っきり他人だということをどういうわけだか忘れていたよ。
目線を道路に戻す―――日に照らされたアスファルト。
黒い道は、けれど―――どこへ続いているのか。
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