* 拾六 *

吉原:『朱華楼』客用寝屋

一人静かに煙草を吸いながらコーザがぼんやりとしていると。す、といきなり襖が開けれれて、一人の男が音も無く部屋に入ってきた。
殺気はなく、楽しげな、むしろ親しげといってもいい雰囲気だったので、刀に手を伸ばすこともなく。す、と後ろ手に襖が閉じらるのを静かに見遣る。そして行灯の明かりに照らされたのが見知った顔だったことに目を瞬き、おまえが来るのか?そりゃないぜ、と呟きながらわざと目を丸くした。

「久しいな、コーザ」
僅かに笑みを浮かべた男が、静かに挨拶を寄越してきた。
ぷか、と煙管を口から離して、コーザもにっこりと笑う。
「こちらに戻ってきてたのか、久しぶりだな」
遊学先の長崎で出会った男は、コーザが懇意にしていた蘭学者の所にしばらく身を寄せていた男だった――――彼が忍びだと知ったのは、絵師のリカルドだ、と名乗った本人に明かされてからだ。遊学期間が切れる直前のことである。
「半年ほど経つか?」
そう言って、まあ座れ、と招くと。する、とリカルドが物音一つ立てずに、床に座った。

「おまえの出てくるほどのことは、まだ仕出かしてねェはずだが?」
そう言って物騒な笑みを浮かべたコーザは、“開国派”を担う次世代の男に相応しいカオになっていた。遊郭でのんびりと杯を重ねながら、煙草を吹かしていても、だ。
リカルドは僅かに目を細め、武士を見詰めた。
す、とすぐさま表情を戻し。
「けどそんな色気の無い話じゃねえよな」
とにっこり笑顔を浮かべたコーザに、ああ、とリカルドが頷く。

「どこまで本気だ?」
その単刀直入な男の物言いに、コーザは呆れた風に息を吐いた。
「相変わらず野暮だね、おまえ。口にするもんじゃねえよ」
その答えに、軽く片眉を引き上げ、リカルドが目を細める。
すぅっとコーザが微笑みを浮かべた。
「身請けしろってンならするがさ、好きあってからがイイやね」

まあ酒でも呑め、と杯を差し出した男に、リカルドが声を低めて静かに告げる。
「身請けは考えろ。ややはできんぞ」
す、と視線を上げたコーザに、真顔でリカルドが更に言葉を続ける。
「あれは遊女扱いだが、実質は語学の先生だ」
その先は察してくれ、と言わんばかりに真っ直ぐにコーザの双眸を見詰める。
「それなら次も許されるがな」

余り入れあげるのも考え物だぞ、と言外に告げられたコーザは、へえ?と軽く微笑んだ。
「先生、とはな。楼主も凝ったことをしてくれるね」
そして、真っ直ぐにリカルドを見詰め返し、静かに言葉を継いだ。
「生憎おれは学問はキライだよ。とはいえ……座敷にも上がってくれないか、また顔を見せてくれるかはあの者の決めることだろ、」
とくとくと酒を注ぎながらあっさりと笑ったコーザに、リカルドは静かに深い息を吐き出した。
「あの太夫にどこまで本気だ、オマエ?」
んー?と長閑な声でコーザが応える。
「先だって、楼主にも同じようなことを言われたんだが。おれは惚れるときはいつだって本気だけどサ、イノチまでやっちまってもいいかもなって風に思ったのは。いまのところはあの太夫にだけだな」
小さく、けれど楽しそうに笑いを零したコーザの応えに、リカルドが、静かに杯を呷った。
「けどおれに言わせればな?あの太夫にまみえて惚れない者がいるとは思えねェよ」

親元から離れ、悠々自適に長崎での遊学生活を送っていた時ですら、滅多に浮かべなかった屈託の無いコーザの笑みを目にして、リカルドは深い息を吐いた。
「ならばもう何も言うまい。思う存分入れあげてくれ」
そうして杯を返しながら、苦笑を刻んだ。はは、とコーザが明るく笑う。
「お。楼主の回し者がいるじゃねェかよ」
そんなものであるものか、とリカルドが小さく笑い。それから、ふ、と表情を戻した。
「オマエもよくよく困難を選ぶな」
コーザはそれには返事を返さず、ただ静かに杯を呷った。

そうして暫く酒を飲み交わしてから、どこか楽しそうな様子のコーザに、リカルドがふっと笑った。浮かれるでもなく静かに恋をしている数少ない“友人”が出会ったかもしれない“幸”に、ほんの祝儀のつもりで言葉を洩らす。
「オマエ、そこまで惚れているのなら。床入りしても驚くなよ。太夫はまだ誰の手付きでもないしな」
リカルドの言葉に、ふっとコーザが目を瞠る。
その様子にリカルドがくくっと笑い、静かに立ち上がった。
「馳走になった――――またな」
酒を呑んだことなど微塵も匂わせずに、す、と障子を開けて外を見遣り。誰も回りに居ないことを確かめてから、すい、と足を踏み出し、あっという間に闇にその身を溶け込ませていった。

くっくと笑いながら、コーザが忍びを呆れて見送る。
「そこは出入り口じゃねェぞ、おい。相変わらず行儀の悪い」
そうして、窓辺に寄りかかったまま煙草盆を引き寄せ。時折煙管を軽く叩いて煙草を詰め替えながら、ぼんやりと思考が流れるに任せた。
国のこと、雪花のこと――――思索している間にゆっくりと太陽が土手沿いの柳の向こう側から顔を出し。そうして久しぶりに遊郭での朝を迎えたのだった。



* 拾七 *

吉原:『朱華楼』雪花太夫の本部屋

「あねさま、目が真っ赤でありんす」
朝一にナミにそう告げられ、雪花はそっと目許を押さえた。
「そんなに酷ぅありぃすか?」
「あい。里でそのような目をしていんしたら、オマエさまは兎かえ、と笑われんした」
「あちきも笑われてしまいぃすか、ナミ?」
小さく苦笑を浮かべた太夫をじっと見上げ、ナミがぷるぷると首を横に振った。
「あねさまは綺麗なお人でありんすえ、ぎゅ、としたくなりぃす」
「ではぎゅっとして、ナミ」
「あい」

ぎゅう、と両腕を回して抱き締めてくれたナミをそっと抱き返し、雪花はそっと笑った。
「コーザさまはまだお休みでありぃすか?せめてお見送りまでには少しは治るとよいのでありぃすが」
「少しの間でもお目を冷やせばなんとか引くかもしれんせん、支度をしておきますえ」
「よろしゅう頼みぃす、ナミ」
「あい、あねさま」

にっこりと笑ったナミの髪を撫で、濡れタオルを作ってくれている間に洗顔を済ませる。
着替えも終えたところで、そっと濡らした手ぬぐいを渡してくれた。
「サンジ姉さまがコーザ様のお側に控えておいでですえ、ご様子を伺って参りぃす。太夫はもう少しそのお目を冷やしていておくんなんし」
「あい、ナミ。ありがとう」
手ぬぐいを目許に置いたところで、くすんとナミが笑った。
「コーザさまにお会いになる前に、眉と睫を黒くお戻しになりんせんと。あねさま、忘れてはいけんせんえ」
「そうですなぁ、忘れたら兎どころではありんせんなぁ」
くすくすと笑って返した雪花に、ナミは嬉しそうににっこりと笑い。
「それでは行ってまいりぃす」
そう告げて、そっと部屋を後にした。




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