* 拾四 *

吉原:引手茶屋『原亭屋』

雪花は総髪を高く結った若侍の姿が通された座敷にあることに、ほっと胸を撫で下ろした。
1週間ぶりの道中を、相変わらず手許に視線を落としたまま乗り切り。
昔から『朱華楼』と懇意にしている『原亭屋』まで辿り着いて、より一層美しくなられましたな、と店主より告げられて、それがお世辞でも嬉しいと思った自分に僅かばかり戸惑っていたのが、コーザの姿を見たことによって、ふ、と浮いていったのを感じた。

雪花付きの禿であるサンジとナミ。新造の染花に喜助のエース。遣手と若い衆が全員座敷に上がったのを告げられ、上座に腰を下ろした雪花はゆっくりと畳に手を付いて頭を下げた。
「コーザの旦那さま、先だっては猫と三つ布団をありがとうござんした」
同じようにして頭を下げた若い衆に、コーザがさっと“裏祝儀”を差し出した―――その手馴れた様子に、遣手がそっと笑みを洩らした。
「よくきてくれたね、」
そう告げられたのに、雪花は僅かばかり細くなった顔をそうっと擡げた。ふんわりと優しい笑みを浮かべた男の顔に迎えられて、僅かに頬を朱色に染める。
ちりん、と鈴の音がし。ナミの腕に抱かれてここまで来た碧が、贈り主のところまで挨拶に行ったのを見遣る。
「碧も、よく来たな」
そろ、と手が伸ばされ。つい、と軽く白猫の額を撫でていく様を見守る。
「覚えてるか、ン?」
なぁん、と碧が喉を鳴らしながら、優しい男の手に頭を擦り付けていった。その様子を、皆が柔らかな笑みを乗せて見守る。

碧がちりちりと鈴を鳴らしながら雪花の元に戻り。
着物に包まれた足の上にするりと上ったのを見届けてから、コーザが視線を太夫に戻した。
「太夫は、変わらず美しいな。おれの覚えていた以上に」
その言葉に、雪花の胸はとくりと跳ねた。さぁ、と朱が散ったのを、コーザが微笑ましげに見詰める。
「コーザの旦那さまも、いつになく精悍な風情でありんす」
裏を返したことで盃を受けることと、喋ることの二つを許された太夫が、ふわ、と僅かに顔を綻ばせた。その艶やかな様子にますますコーザが表情を和らげる。
「ふざけた顔だとゾロには言われるがな」
くすりと笑みを洩らした雪花から視線を外し。料理が運ばれてくるのを待つ。

先に酒が運ばれてきて、太夫の前に一揃えが置かれる。猫を膝から下ろし、す、と雪花がコーザの近くに膝を寄せた。
にぁん、と甘えた声で鳴きながら太夫の膝上に戻ろうとする碧の様子に、コーザがふわりと柔らかく目許を細めた。
「碧を気に入ってくれてよかった。目が太夫と揃いだろう?」
甘えて指先を噛む碧を軽く突付いて、雪花がふわりと微笑んだ。
「It must have been difficult for you to buy a Turkish Angola and bring it here」
酒を注ぎながらそう囁いて、ふわりと雪花は目を細めてしっかりと言い直す。土耳古猫をお買い付けしんして江戸までお運びしぃすのは、相当ご苦労なことと存じます、と。
ぐっと煽ってから酒を返しつつ、コーザが微笑む。
「祖父殿が大阪で商いをしていてな?その関係で手に入れたが、良い貰われ先にあたったな、アレも」
Don’t you think so too? ―――――あなたもそう思わないか?そう雪花にしか聞こえないだけの声で、流暢な発音でコーザが呟き。雪花は僅かに首を傾けてから、そっと視線を下げて頬を染めた。

ちょいちょい、と指先で碧を呼び。即座に飛んできてじゃれ始めた仔猫をひょいと抱き上げ、じ、とコーザが碧の目を覗き込む。
「あァ、確かに揃いの色だが……太夫の蒼の方がおれは良い」
そう言ってにっこりと笑った。
「まぁ、コーザさま」
くすくすと太夫が笑い。若い衆が店のものと声をそっと出し合いながら、料理を並べていくのをそっと見守る。

原亭屋のお抱え芸者が、静かに三味線を奏でている中。太夫以外の一同は明るく笑いながら、出された軽食に舌鼓を打つ。
喋ることと呑むことを許された太夫は、相変わらず言葉数が少なかったけれども。コーザが語る市井の様子や、鷹のじじい、と呼ぶ浪花の大商人である祖父のユニークなエピソードの数々に、くすくすと笑いを零していた。
時折、一言二言、質問や感想を述べる太夫の言葉に、コーザはじいっと目を合わせて聞き。その目許の朗らかな様子に気付き、太夫が嬉しさと苦しさと哀しさを織り交ぜた視線を返すのに、またふんわりと微笑んでいた。

いくつかの料理を台に乗せて、妓楼への土産とし。
手始めに軽く杯を交わし、少しばかり食べ物を腹に収めた一同は、引手茶屋に努める者たちをも引き連れた道中を経て、朱華楼へと戻っていく。
背筋を凛と伸ばして歩く雪花太夫の後ろに客としてコーザがいることに、いまだ見世を張っていた方々の女郎たちから諦めの溜め息が零され。
それでも、毎度のことながら大見世の花魁が見せる煌びやかな道中の様子に、道を歩いていた人々と共にぼぅっと見入るのであった。



* 拾五 *

吉原:『朱華楼』

引手茶屋の者が帰って行き。
雛菊太夫の一同も挨拶に交じった酒宴が終りに近付くに連れ、少しずつ言葉数を少なくし、段々と哀しげで苦しい様子を雪花が隠せなくなったところで、遣手が「お引けでございます」と終了を告げた。
喜助が、コーザが雪花に贈った三つ布団を寝間に敷いていく中、他の若い衆たちが、客部屋を片付けていく。

部屋の中が片付いたところで、客であるコーザと、雪花と禿二人を残し、皆が口々に挨拶を告げて各々の持ち場へと帰っていった。
サンジがナミに指示しながら、コーザを手水場まで案内し。寝屋に戻ってきたところで浴衣に着替えるのを手伝う。
着替え終わったところで、ナミがこっそりと花魁を呼びに行った。
碧をナミに預け、寝屋まで足を運んでそろりと腰を下ろし。きちんと指を突いて、静かに頭を垂れた。

「今宵はありがとうござんした、ごゆるりとおやすみになられまし」
雪花が顔を上げたところで、す、とコーザが視線を合わせた。
「太夫もゆるりとな、」
ふ、と柔らかな微笑を刻む。
「明けには何の夢を見られたか、教えてくれ」
にか、と悪戯っ子のような笑みを浮かべた若侍に、雪花がくすんと笑みを洩らし。
「今宵が夢の様でありんしたえ、それ以上のものはありゃせんかと」
そう告げて、もう一度軽く頭を下げてから立ち上がった。
じっと見詰められているのを感じ取りながら、部屋を後にする。

ぱたん、とサンジが襖を閉じて。足早に太夫の元に戻ってくる。
本部屋に戻り、花魁だけが軽く食事を済ませ。その後にナミにも手伝わせて、花魁の髪を解し、帯を解いて寝支度を調えさせ。ほっと花魁が息を吐いたところで、二人が揃って頭を下げた。
「花魁、それではおやすみになられまし」
「あい。サンジもナミも、ご苦労でありんした。しっかりと寝て、また明日もよろしゅうにね」
「あい」

二人が下がったところで、雪花は布団の上で既に丸まっていた碧の頭を撫でた。
とろりと眠たそうな目を開けて、みぁ、と欠伸交じりに鳴いた仔猫を撫でて暫く過ごし。
どきどきと高鳴っていた心臓が漸く落ち着きかけたところで、隣の寝屋にはコーザがいるのだと思い出して、はっと顔を赤らめた。
禿から新造へと為った時は、水揚げ料をベックマンが支払ってはいたが。その日も夜通し、オランダ語を交えての英語の勉強だけで夜を明かしたので、未だ誰の手も付かず終いであった――――太夫と褥を共にするほどの馴染みはいまだ嘗ていなかったし、そもそも客と呼べるような相手といえば最初に雪花をここに連れて来たベックマンと、新造の頃から顔見知りである“絵師”だと紹介されたリカルドという男だけだった。そしてリカルドは昼間金子を払っていくとはいえ、雪花に会いに来るのはごくたまにであったし、絵師であり、絵を巻物に書いていくその才能がずば抜けてはいても、その絵に英語と和語を書き記していく様子からして、凡そ普通の客ではなかった。もちろん、雪花に手を触れたりすことはなく、夜を過ごしていくこともなかった――――本来なら雪花が金を払い、絵師に暇を潰して貰いに座敷に上げていることになっているとサンジに教えてもらったのは、言葉も随分と覚えてからのことだった。

コーザのようなお大尽が、花魁の最初の馴染みになることは寧ろ喜ばしいことだったし。
大概の大見世の客とくれば、普通ならば年配の大商人、もしくは彼らに接待されてくるどこぞの役人が主であり。コーザのように若く見栄えの好い男が現れることなどまず無いと以前朱駒に説明されていた雪花は、花魁とすればそれが名誉なことでもあると知ってはいた。
雪花個人としても、コーザが酒宴の間に話してくれる市井の話しや長崎での出来事、幼少の頃のことなどを聞くのは酷く楽しみなことであったし。猫の碧にしても、鏡や西洋硝子などの贈り物に込められる心遣いは、品物以上に嬉しく。柔らかな笑みを浮かべ見詰められると、不意に胸がどきどきと高鳴ってしまうのも自覚していた。今も、隣の寝屋で眠っているという事を思い出すだけで、不思議と気持ちが高揚してしまうくらいだ。

けれど、それでも――――廓という女の世界に身を置いているとはいえ、自分は男なのだ、という自覚が、浮かれそうになる気分を引き締めるのだった。
12の頃にロンドン郊外にある屋敷を両親と共に離れてからも、船旅の間中もずっと数学や文学や科学や生物学の勉強は続けていたし。質素ではあったけれども、礼拝も毎週日曜日、欠かさず行われていた。両親も自分も熱心なキリスト教徒ではなかったけれども、それでも教会が罪とすることを知ってはいた。
添うことが叶うのならば、果たして自分は地獄へ堕ちるのだろうか、と雪花はぼんやりと思っても。自分を望んでくれる人を欺き続けることに比べれば、寧ろ喜んで堕ちるだろうと思い。けれどそれ以前に、自分を男だと知った優しい人に嫌われ、二度と会えなくなることのほうがより恐ろしかった。

人恋しいだけなのだろうか、情愛に餓えているだけなのだろうか、優しくされたいだけなのだろうか、と考えてはみるけれども。
本当の家族のように自分に接してくれるサンジにも、持ち前の茶目っ気で自分を楽しませてくれるエースにも、厳格な父のようなベックマンにも、静かに語りかけてくれるリカルドにも、吉原で生きる花魁として必要なことを総て教えてくれた朱駒にも、ベックマンに頼み込まれて自分の面倒を見てくれているシャンクスにも―――――朱華楼で生活するようになってから知り合った総ての人のことを思ってみても、同じような気分にはならなかった。ただ側に居て自分に笑いかけて喋りかけて欲しいなどと……。

布団に横たわって目を瞑っても、ひとりでに涙が込み上げては零れていく。
何が辛いのか、何が哀しいのか、それすらもぐちゃまぜにかき回された胸中は判断を示さず―――――ただぽろぽろと静かに零れ落ちる涙に、枕を濡らすに任せ。
優しい人にあと何度会うことができるのか、そもそも“部外者”でありれっきとした“客”であるコーザと次に会うことがベックマンに匿われている自分には許されているのか、こうした生活があとどれくらい続くのか、何も想像もできないことに胸を痛めながら、朝までうつらうつらと浅い眠りにつくのだった。




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