* 弐拾 *
吉原:『朱華楼』雪花太夫の本部屋
人通りが少なく、歩いている者といえば通りを流す物売り程度の仲の町通りを、格子越しに見世を張る女郎も殆ど居ない中通り過ぎ。大門でコーザを見送ってから、まる二日が経った。
相変わらずベックマンから文の返事は届かず。コーザへの気持ちが恋心だととうとう自覚せざるを得ず、自分の気持ちを持て余している雪花は、ぼんやりと碧を眺めていた。
古い腰紐でナミとサンジが交互に仔猫を呼び寄せてははしゃいでいる姿に、ほろりと涙が零れそうになって慌てて雪花は姿勢を正した。
隣の部屋では雛菊太夫が、自分の馴染みを送り出す支度をしているのだろう、パタパタと忙しなく響く禿か、遣手か、喜助の足音に、はあ、と溜め息を吐いた。
様子を見かねて、サンジがそうっと花魁を呼んだ。
「あねさま、あねさま」
「なんでありぃすか、サンジ?」
柔らかな視線を向けた雪花に、サンジはにっこりと微笑んだ。
「碧も腰紐だけじゃあ可哀想でありんす。何か玩具を与えとうござんす」
サンジの提案に、ナミがぱちりと手を叩いた。
「サンジ姉さま、それは素敵!」
雪花はぱちぱちと瞬いてから、自分の足元に甘えるように駆けてきた碧を抱き上げて、その目を覗き込んだ。
「あお、お前も遊ぶ物が欲しゅうござんすか?」
ついつい、と手を差し伸ばしながら、仔猫が、みぁ、と鳴いた。
「あい解りんした。ナミ、ご内所さまに少し金子を渡して貰う様、お願いしておいで。幾ばかりかお預かりしていただいていた筈」
あねさま、そうではありんせん、とサンジが頭を振った。
「あねさまに碧をお預けなさったのは、コーザさま。土耳古から来たお客人、とコーザさまはお文に書いていなんしたのと違いありんせんか?」
「そう、でありぃすねえ。サンジは物覚えがようござんす」
微笑んだ太夫に、サンジは軽いため息を吐いた。
「でありんすえ、コーザさまにお願いいたすんでありぃすよ、あねさま。お文を書いて、碧になにか買っては貰いんせんか、って」
「でも」
「贔屓しておくんなさいます旦那様方に物を上手に強請って手に入れるのが、花魁の手腕でありんす、あねさま。腕の見せ所、でありぃすよ」
困った風に顔を顰めた雪花に、サンジはにっこりと微笑んだ。
「コーザさまが、あねさまに悲しい顔はさせたくない、と仰っていんした、と。そうサンジはあねさまにお伝えしんしたえ?」
禿の言葉に、静かに雪花が頷く。サンジが僅かに語気を強め、きっぱりと言い切った。
「あの言葉は嘘ではありんせん。コーザさまはあねさまに頼られることを、きっと心待ちにしていなんす」
「そう、かえ?」
「そうでありんす!お試しになってごらんせん、サンジは間違ったことは言っておりんせん!」
ねえナミ、と同意を求められ。目を真ん丸くしていた年下の禿が、こくりと頷いた。
「頼られて、それに応えることこそ男の意地だと。そして、意地を事も無げに通して見せるのが男の粋だと、朱駒師匠に以前教わりんした。コーザさまは通で粋な旦那さま、違いんせんか?」
細い禿の声で畳み掛けるように問われ、花魁が静かに頷いた。
「そうでありぃすな――――では、お文を書きましょう。支度をしておくんなんし」
「あねさまの文字には色香がありんす。きっとコーザさまもお文を受け取るのを、心待ちにしておいでですえ」
にっこりと笑ったナミの髪をそうっと撫で。腕の中でごろごろと喉を鳴らしていた碧をその腕の中にそっと預けた。
「そう言ってくれると、心強うござんす」
「あい。サンジ姉さまとナミは、ずっと花魁の味方でありんすえ」
にっこりと笑ったナミに、ふわりと微笑み。花魁は文を書くために墨を擦り始めた。その間に何をどうかこうか、頭の中で文を構成していく。
用意が整ったところで、さらさら、と香が焚き染められた紙に書き出した。
『―――碧もお前さまをお慕いしている様子、毬でも転がして気鬱を晴らしてやろうとしてみても、とんと鳴き止みやしやせん。新しい玩具でも買うてやろうと思い、けれどどこで何を買うてやればいいのやら、見当皆目付きんせん。どこぞよいお店を、コーザさまはご存知ではありぃせんか?』
顔を見に来てやってはもらえまいか、と書こうかどうかたっぷり10分は悩み。けれど、まだ自分の心内が決まらないのに、と自戒して、そのまま文を結んだ。
それを丁寧に畳み。振り返って、にこにこと笑顔を浮かべて碧を撫でていたナミに、それを差し出した。
「文使いの新八さんのところに持っていっておくれ」
「あい、あねさま」
「それと、サンジはどこに行きんした?」
「先程エースさんに呼ばれんした」
「エースさんに……?」
ナミから仔猫を引き受けた太夫は、送り出した禿と入れ違いにサンジに伴われて上がってきた大柄の男に、大きく目を瞠った。
「恋の病で更に美しくなりましたな、太夫」
にっこりと笑った男が、サンジの髪をそっと撫でた。
「あの様子じゃ太夫が倒れかねん。手を貸してやれ」
「あい、熊さん――――あねさま。薬屋の熊さんでありぃすよ」
「薬屋…?」
「あい」
サンジに促されて、また座布団に腰を下ろした雪花は、大きな箱を背負っている男の顔をじっと見詰めた。
どかり、と箱を置いてから床に腰を下ろした男は、この国に流れ着いて、雪花――――セトが初めて目にした男だった。
流暢な阿蘭陀語を操っていた医師――――ベックマンとリカルドと共に、あの粗末な木の小屋にいた人間。
「久しく拝顔していなかったが、元気そうでなによりだ。背も髪も伸びて見違えるようだな」
耳に覚えのある低くて深い声に、雪花はゆっくりと深呼吸した。
「幾つになった」
「――――18になりぃした」
「ああ、年を越したからか。廓言葉も板についたものだ、ここでの生活はどうだ」
「何不自由なく過ごさせて……」
ぱつ、と涙を零した雪花に、薬屋は静かに微笑み、そっと懐紙を渡した。
「泣くな。黒い涙になるぞ」
「あい……あい」
きゅ、と涙を拭いてから、す、と姿勢を伸ばした雪花に、男は静かに頷いた。
「恋煩い、だそうだな」
「……あい」
「オマエの生国では罪となるんだったな」
「―――――そう教わってきんした」
「で?オマエはどう決めた」
「……望んでくれんしたら、応えとうござんす……けんど」
言葉を切って着物の首元をそっと握り緊めた雪花を、男は優しい眼差しで見詰める。
「太夫、知っているか?男女の目合いであっても、同じ方法で事を行えるのだ」
「……そう、なんでありぃすか?」
眉根を苦しげに寄せたまま見上げた太夫に、男が小さく笑った。
「この国はな、太夫。昔から衆道といってな、武将が宛がわれた稚児とそういう仲になることが多々あってな。今となってはあまり褒められた趣味ではないが、未だに陰間茶屋といって、男が色を売る場所もある。遊びで気軽にいく男もいる。特にこの国では罪という意識の伴わない文化なのだよ」
「はぁ」
「オマエは色を売ることを前提としないでこの場所に置かれている筈」
「……そうでありんす」
「オマエが添いたいと思うのは、一時の心の迷いではなく、思慕故、なのだろう?」
あい、と頷いた花魁に笑いかけて、薬屋は背負ってきた箱を開けて、中の引き出しを引いた。
「オマエの好いた男がその道の術を心得ているかどうかは知らんがな、オマエのことは伝えてある」
さ、と花魁の顔から血の気が引いた。
「……いつ?」
「こちらに泊まっていた夜のことだよ」
何の問題もなかっただろう?と淡々と笑って告げて。茶色の薬瓶に入った液体と、平らな缶に入った軟膏を取り出して見せる。
「こちらの液体は適量を指先に取り、馴染ませていけばいい。植物性の油をいくつか混ぜ合わせて作ったものだ。多少は目合いが楽になるだろう。こちらの軟膏は終わった後に塗布するものだ。傷を作って、そこから化膿させてはいかんからな」
そして別の引き出しから、紙に包まれた粉薬の束を取り出した。
「もし翌日熱が出て痛みが激しいのであれば、これを一袋飲むといい。一日に二袋までは半日が過ぎたなら飲んでいい。ご内所に預けておくから、出してくれるように頼むといいだろう」
「……どんなことがあっても、自死を試みるようなことはありんせんえ…?」
そうじっと見上げて言った太夫に、薬屋は低く笑った。
「そうだろう。だがな、気鬱になればその理性が揺らぐ。だからな」
「……あいわかりんした」
漸く僅かに微笑んだ花魁に、薬屋はそっと笑いかけた。
サンジが、薬屋と太夫に煎茶を淹れた湯のみを差し出す。
ありがとう、と薬屋が禿に告げて、また太夫に視線を戻す。
「お館さまはいま忙しくてな。オマエたちによろしく、と伝えるように承った。返答が遅くなってあいすまぬ、ともな」
「……忙しいんでありぃすか」
「来月にはオマエたちの顔を見に、こちらにも寄られよう。それまではなにかあれば絵師に頼むか、私に託けをしてくれ」
「あいわかりんした」
「それと、サンジ」
す、と視線をずらした薬屋に、禿が軽く首を傾ける。
「お館さまが戻られたら、オマエは里に一度帰れるようだよ。年を越して、もう15だろう?」
「あい、そうでありんす」
「いつでも戻れる支度を調えておきなさい、とのことだ」
「あい、熊さん」
ぺこりと頭を下げたサンジを、雪花はじいっと見詰める。
「雪花太夫」
「……あい」
「しっかりな」
「あい……ありがとうござんす」
丁寧に指を突いて頭を下げた雪花に、薬屋はふわりと微笑んだ。
「無事添い遂げることができるといいな」
ふわ、と頬を染めて、雪花が微笑んだ。
茶を馳走になった、と告げて。重い大きな箱を閉じて、立ち上がった薬屋がそれを背負い込んだ。
「あの、熊さん…?」
太夫が戸惑い気に名を呼んだのに、薬屋がにっこりと笑った。
「お代はお館様からの祝儀分だそうだ。足りなくなったらいつでも声をかけておくれ」
大柄な割りには身軽な動作で出て行った薬屋の背中を見守ってから、雪花はサンジに向き直った。
「お前も禿ではなくなるのでありぃすね」
「あい、あねさま」
「お郷は遠いのでありぃすか?」
「あい。お江戸からは歩いて何日もかかりぃす」
「お馬に乗るか、お馬に車を引かせんしたら、早ぅ行って帰れるのに」
「お馬はお武家さまが乗るものえ、あちきら女郎はもちろん、市井のお人も乗ることはできんせん。それにお馬は畑にて土を耕す生き物でありぃすよ。車を引くこともありぃすけど、それにお人は乗りんせん。荷だけ積むんでありんす」
「そうなんでありぃすか……」
籠の中で眠っていた碧の側に腰を下ろし、溜め息を吐いた雪花を、サンジがひょい、と顔を覗きこんだ。
「もしかしてあねさま、お馬に乗ったことがありぃすか?」
ふわ、と雪花が笑った。
「ありんす。4つの頃にはもう跨っていんしたえ、10の頃には遠くまで馬で駆けておりぃした」
遠い故郷の風景を語り出した雪花の隣に腰をかけ、サンジがじっと姉女郎を見詰めた。
話しが途切れたところで、そっと口を開く。
「あねさま、帰りとうありぃすか……?」
雪花が、そうっと首を傾げた。
「さあ、それはもうわかりんせん。親も多分生きてはおりんせんし、まだ家があるかどうかも……」
そう言って言葉を切った花魁の、蒼氷色の双眸が潤んでキラキラと煌いたのが、酷く綺麗だとサンジは思った。
「今はここが家でありぃすえ、あねさま」
そう言って、そうっと姉女郎の手を握れば。きゅ、と優しく握り返された。
「そうでありぃすなぁ……」
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