* 弐拾伍 *
吉原:『朱華楼』雪花太夫の本部屋
『乾いた露は降らして湿らしてありぃすえ、どうぞお仕事に精をお出しになっておくんなんし。花は摘まれぬ限り、同じ場所に咲いておりぃすえ』
そう書いて出した文には、夕刻に返事が返された。
『詰まれた後は、如何いたされるおつもりか。よもや同じ場へ戻されるとお思いならば………。続きはあなたに直にお聞かせするよ』
届いた手紙を何度も読み返した。
会いたいと願い、会いに来る、と言われ。こうして文を見詰めれば、二度しか会ったことのない男に抱き締められたいと願う自分の心の在り方に、幼い頃に教え込まれた罪の意識が揺れた。
家族ともども、熱心なキリスト教徒であった訳ではない。
先々代までは落ちぶれた貴族の末裔だった家系で。母が裕福な貿易会社の一人娘で在り、父が家を継がなくても良い次男で在ったからこそ、海を渡って商売を始めようと一人息子のセトを伴って、大英帝国の新たなフロンティアとして開けたアジアへと出てきただけの、言ってみれば普通の家庭の子供だった。
船に在ってからも毎週ミサには欠かさず参列していたし、心苦しい時には首から提げていた十字架を握り緊めるのがクセになってはいても、心の奥底からキリスト教を心の拠り所にしたことはなかったし。十字架を失くし、朱華楼に身を置くようになってからは、滅多に祈りを捧げることもなかった――――この国では未だキリスト教は異教だと教えられ、信奉者は厳しく罰せられることになる、と教えられていたから、うっかり十字を切っているところを見咎められるわけにもいかないと思い、敢えて自分に禁じている内に祈ることに必要性を感じなくなったからだ。
だから、自分が好きになり、自分を好いてくれている人に望まれるのであれば、その気持ちを大切にしたいと思い切ったのだった。
この国では異国人である自分のことを知り、男だということを知っていて尚欲してくれるのであれば――――抱かれることがどれほどのことだというのだろう?総てのリスクを抱え込んでくれる人の想いを、自分が好ましいと感じた人が自分に寄せてくれる想いを無碍にすることのほうが、罪を犯すことより余程、雪花―――セトには辛いことだった。
ただそう思い切ってさえ、男同士で愛を交わすことはこの国では罪ではない、と告げられてさえも、やはり罪の意識は消えずに心の奥底に根付いていたし。
何より、本当に異国人であり、男である自分を了解して欲してくれているのか、本人の口からそう言われていないこともあって、信じきれずに居た。
綺麗に整った文字を指先でなぞり、さらりとした紙の感触に目を閉じる。
――――信じきれずにはいても、寄せてくれている好意が本物だと、あの腕に抱き寄せられた時に感じた。
本当に抱かれてしまうまで、信じきることなど出来ないことも承知していた。
それでも、万が一を考えれば、心が揺れる。揺れるけれども、会わずにいることなど、もう出来ないということも解っていた――――どうしても、会いたいのだから。この気持ちを押し殺して生きていくことを考えたら、死んだ方がマシだろうと思えてしまうのだから。
許婚が居ることは知っている。
本国で言えば、農業革命と産業革命(父が新聞を読み上げながら幼いセトに言った“This is what we are going through right now, Seth my boy, the Industrial Revolution which is following the Agricultural Revolution―――我々が今真っ只中にいるのは農業革命に続く産業革命というものだよ、セト”)以前の、中世を引き摺っているようなこの国の中にあってコーザは貴族の跡取りだ。士農工商の身分制度が未だ厳格に守られている中に在って、あの年令と経済力を鑑みれば、居ないほうが不思議なのだ。
もとより自分は男だし、自分から選んでいない上に常ではない形で擁護されているとはいえ、今の自分の立場は娼婦だ。
自分が後どれだけこの場所、この国でこうしているかは不明だし。世界の流れを知ることから今は切り離されているとはいえ、以前培った情報を思い出せば、この国だってそうそう長い間、この形のまま在り続けることなどは不可能だろう。だからこそベックの旦那様(本来どんな立場で何をしている人間なのか解らなかったが、ただのスキモノの旦那だとは思えなかった)が自分を国から隠してまで、自分から英語を習っているのだ。彼の部下である絵師のリカルドと共に。
そういうこと総てを鑑みれば、一生を添うなどという高望みはしていない。この部屋、この廓という隔離された世界から出てみたいとも思わない――――自分を匿ってくれているご内所のシャンクスや、自分を世話してくれているサンジやナミ、一人前の花魁として言葉もわからないうちから育ててくれた朱駒に迷惑をかけることになるのは、目に見えて解っているからだ。外で発見されれば自分という異分子が、三年もこの国に住んでいたということを捨て置いてくれる程この国の役人は優しくはないだろうし。自分を含めた女郎たち総てが喋っている“廓言葉”は、口を開けば一発でどの見世に居たかまで知らしめることのできる程特殊化された言葉なのだと言われていたから、とても隠し通せることではないことも理解している。
だから、一度、二度……コーザが自分を望んでくれる限り応えることができれば、それだけでいい、と本気で思っている。それ以上を望むことなど、なんらかの奇跡でもおきない限り、イギリスに帰ること以上に大変なことだと解っているのだから。
先のことを考えれば、あまりの暗闇の深さに絶望するだけだから、雪花は敢えて思考を切り離し、また文を見詰めた。
自分に出来ることは、今となっては会いたい、と素直に告げることだけだった。
何時になってでも……会いに来てくれるのを、待つだけ。
筆を取って、返事を認める。
『摘んでいただきんしても、廓の花はここ以外に咲く場所を知りんせん。摘んでいっておくんなんすお手をお待ち申し上げる他、何ができますでしょう?―――雪花はお前さま以外の手には摘まれとうござんせん。摘まれたならば、また摘んで戴けます日を指折り数えてひっそりと咲いていましょう。そう在ることを許しておくんなんし』
書いている間に涙が勝手に溢れた。
哀しくて、悔しくて、寂しくて、辛くて……本当は、自分を好いてなどくれていないほうが良かったのかもしれない。自分に関わったことで、将来の妨げになるかもしれない。
それでも。訪ねてきてくれる日を待っていてもいい、と言ってくれたコーザの気持ちが嬉しくて。
彼の将来の可能性を考えても、今は会いたいと身勝手に思ってしまう自分を、突き放してしまえない自分を呪った。
落ちた雫に文字が滲み、紙が縒れてしまっても、もう書き直す気力もなかった。
文をナミに託し、碧を抱き上げてその背中に顔を埋めた。
そしてとうとう声を押し殺しきることができずに泣き出し。
「考えることなど、できんせん……」
そうひっそりと呟いた雪花を。
サンジは部屋の外から、慰めの言葉など見つからないことを腹立たしく思いながら、じっと見守っていた。
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