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 * 弐拾六 *
 
 吉原:『朱華楼』雪花太夫の本部屋
 
 朝方、風呂から帰ってきたのと時を同じくして、また手桶一杯の白百合が届いた。
 文が無いことに深く静かに胸が痛んだのを押し殺した雪花は、前と同様に活けようとしたところで、緑の茎に隠されるようにして1本の百合に金の細い鎖が掛けられているのを見付けた。
 
 失くした十字架を下げていた物に良く似ていて、ちくりとまた胸が痛んだ――――神の意思に背くことはもうとっくに覚悟した筈なのに。それでも何かが訴えるのを押し殺して、そっとそれを首に掛けた。肌に付けられるものを、故郷を思い出すものを贈ってくれたコーザの気持ちが、酷く嬉しかった。
 待っているだけの運命でも――――同じ朱華楼に居る太夫たちよりは幸せなのだと理解する。コーザは自分が好いた人なのだ、望まれるだけではなく。他の太夫たちには、旦那さまたちに自分を“許す”けれども、それは愛したという意味と同じでは決してないのだから。愛する人に心を尽くして貰う事の幸運を、こんな中でも――――こんな中だからこそ、雪花は噛み締めていた。
 
 文が無かったから、コーザが昨日自分が出した文をどう受け止めたかは解らない。けれどその返事がこの金鎖なのだから……。
 そこに意味を見出すべきかどうか迷ったけれども。自分を繋いでくれる、という意思なのであれば、喜んで自分は繋がれるだろうと思った。
 
 お礼を認めようと文面を考えている内に遣手に呼ばれ。
 「コーザの旦那様が花魁をお呼び出しです」
 そう告げられて、どきりと胸を高鳴らせた――――それからはもう、にこにこと笑顔を浮かべたサンジとナミに促されるままに支度を整え。逸る気持ちを宥めながら、引手茶屋の原亭屋に向かったのだった。
 
 
 
 * 弐拾七 *
 
 吉原:引手茶屋『原亭屋』
 
 茶屋の座敷に上がれば、優しい笑顔に迎えられ。不甲斐無く泣き出しそうになるのを無理矢理抑え込んで、頭を垂れた。
 「ご贔屓に預かりんして、ありがとうござんす―――――よう吉原までお越しくださいんした」
 遣手に紙に包まれた金子を若い衆に渡したコーザが、す、と真面目な顔で雪花を見遣り。
 徐に袂から小さなものを取り出して、雪花の顔の前でちりんと音を鳴らした。
 サンジの胸に抱かれて来ていた碧が目を真ん丸くして髭と耳をぴくりとさせ。
 首を傾げた雪花に、コーザがにっこりと笑って告げた。
 「……あァ、碧と間違えた」
 そして、ぱちぱち、とまだ潤んだままの目を瞬いた太夫の手にそれを滑り込ませ。
 「来たよ、」
 そう言って、柔らかく目元を緩ませて笑った。
 
 太夫はその優しい声に涙を零しそうになり。けれど、ぐっと息を呑んで堪えてから、ふわ、と柔らかく微笑んだ。
 「あちきの首から下げんしょか…?」
 囁き声にまで落とされたようなその声に、コーザはくぅっと口許を引き上げて。
 「それは困る。今朝方贈った方にしてくれないか?」
 そう明るい声で告げた。
 雪花は、そうっと指先でたおやかに胸元を押さえ。
 「あれに通せば音もよう響くと思っていんしたえ」
 そう言って、またふわりと笑った。
 その頬にそっとコーザは指を伸ばして触れ、雪花がすぅ、と目を細めて微笑む。
 思い悩んでいたことはまだ胸の内に残っていたけれども。たったそれだけのことでも、胸がどきどきとしてしまう程に嬉しいことだったので、敢えてそれは隠さないでおいた。
 
 二人のそんな初々しくも仲睦まじい様子に、互いが互いを思い合っていることが痛いほどに伝わってきて。
 それでも誰もが、ここが廓で二人が近付きすぎてはいけないことを熟知していたので、どちらもが無作法をしないようにと、そわそわしながら見守っていた。
 
 酒と軽い食事が運び込まれ。
 太夫に酒を注いで貰いながら、周りの緊張した空気を読み取って、軽い口調でコーザが言った。
 「祖父殿がな、早馬でどうしても来るというのを何とか思い留まらせたよ」
 早馬、という言葉と、来る、ということに、雪花が僅かに目を瞠る。
 「せめて籠と仰ればよかろうに、と手代が嘆いていたサ」
 コーザの祖父といえば、かなりエキセントリックな人だとはコーザに教えられていたけれども。それと同時に、幕府の役人たちも一目置くほどの人物だということも、後々からエースにも教えられていた――――まだコーザが朱駒の馴染みだった頃に朱華楼に訪れ。孫と一緒に妓楼にて酒を飲み交わたことがあるらしい。
 気さくな人でもあって、その頃から喜助だったエースや、楼主であるシャンクスとも仲良くなるくらいの人だったという。エース曰く、『大阪一の大商人を捕まえて言うにゃあナンだけどな、あの鷹ジジィはすげェよ』というお人らしい。
 
 どのように“すげェ”のか、雪花には計りかねたけれども。コーザが大切な“祖父殿”に自分のことを話していてくれたことや、あまつさえ、その“祖父殿”が一介の女郎である自分に“会いたい”と思ってくれたことは、嬉しかった。
 くぅ、と笑みを口許に刻み、太夫はそうっと会釈した。
 「いつか機会がありんしたら、雪花もお会いしとうござんす」
 愛しい人の愛する家族だ、もし会うことがあればそれは素敵なことに違いない、と雪花は心の底から思った。
 
 「あァ、放っておいてもいずれ来るな、あの様子だと」
 そう言って、コーザは、あーあ、と軽く天を仰いだ。
 「奇天烈な御大だが、太夫に無礼はさせな……」
 そこまで言って、くる、とエースに向き直った。
 「や、あれは。存在自体が既に無礼か?」
 話しを振られたエースは、やぁ、とぽりぽりと頭を掻いた。
 「確かに度肝を抜かれるような豪胆な大旦那ですがねェ、オレはそこまでは言えな……っと、」
 にひゃ、と笑って口を押さえる。
 「まぁ太夫には優しいんでないですかネ?旦那の存在を差し置いて、膝枕でも要求するかもしれねぇっすけど」
 あ、でも助平な意味じゃあないっすよ、太夫。そう言ってエースが手をパタパタと振った。
 「鷹のじぃ、おっと、大旦那サマはその辺りがお上手だからなァ」
 うしししし、と笑ったエースの言葉に、くすくすと雪花が笑ってコーザに言った。
 「ますますお会いしとうなりんしたえ」
 
 
 
 
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