* 弐拾八 *
吉原:『朱華楼』雪花太夫の本部屋
三度目にしてコーザは漸く花魁の本部屋へ招かれ。今度は花魁も交えて、取り寄せた酒やご馳走に舌鼓を打った。
一度、朱華楼の主人であるシャンクスが挨拶に顔を出したが、特に何を言うでもなく。軽く酒を客であるコーザと飲み交わしてから、さっさと戻っていっていた。
通常ならば、他の花魁や新造なども顔を出す場ではあったけれども。雪花太夫が、自分付き新造である染花と、禿の二人と、あとは喜助のエースとしか親交を深めていなかった為(そう在るよう楼主に皆が言われていた)、初めて馴染みとして認められた客を招いた日ではあっても、賑やかであることを良しとしている吉原にあっては静かな酒宴であった。
遣手の「お引けでございます」といういつもの合図を得て、酒宴に加わっていた若い衆や新造が次々に客であるコーザと花魁である雪花に挨拶をし、その場を辞していく。
喜助のエースが台の物の残り等を廊下に出していく間に、コーザはナミに伴われて手水場まで降りていき。雪花はサンジに手伝ってもらい、飾り帯を外し、立兵庫に結ってあった髪を下ろした。それから一瞬考え、化粧を一度水で丁寧に落としてから、紅だけをそっと引きなおした。
コーザが贈った三つ布団を、喜助が部屋に敷いていき。その間に遣手がその枕元に煙草盆や水差し、小引き出しのついた漆塗りの箱などを配置していく。
部屋を灯していた行灯が次々に消されていき。灯し油の置き行灯に替えられるのと同じくして、少しずつ雪華の顔色も曇っていく。
戻ってきたコーザをす、と見上げ、僅かに微笑み。
碧を抱えたサンジと、碧の寝床である竹の籠を持ったナミ、そして総ての仕事を終えたエースがそれぞれ挨拶をして部屋を出て行くのを、じっと見守った。
最後にぐるりと部屋を見回した遣手が、す、と頭を下げ。
「それではお繁りなさりまし」
そう挨拶をしたのに、す、と頭を垂れて挨拶を返し。二人きりで残された気配に、するり、と立ち上がった。
じ、と見詰めてくる男に、緊張からくる強張りを無理矢理解いて笑みを小さく浮かべ。用意されていた浴衣に着替えさせるために手を貸す。その指先が冷えて冷たくなっていることには、雪花は気付いていなかったけれども。コーザは目線を和らげて、静かに着替えを手伝う雪花を見詰めていた。
浴衣の帯を締めたコーザから僅かに離れ、先に脱がせた着物を呉服台に乗せておく。そして静かに戻り、打掛をさらりと脱いで衣桁にかけ。しゅる、と衣擦れの音を立てて帯を解き、二枚重ねて着ていた内の一枚の長襦袢だけを残し、小袖と長襦袢を合わせて脱いで、それも衣桁にかけた。
柔らかな眼差しのまま、じっと見守っていたコーザの手に自分のそれを滑り込ませ、つい、と軽く引く。
「お支度が整いんしたえ、どうぞ」
布団の側に膝を着き、す、と上掛けを捲った手を。コーザが同じように膝を着いてから、つい、と引き上げた。
「……コーザさま?」
少し驚いたように見上げた雪花の目の前で、綺麗に手入れされたその指先にそっと口付ける。
「冷えてしまいんすぇ」
ふわ、と柔らかく微笑んだけれども、緊張に身体を強張らせている太夫を、コーザは更に優しく眼差しを和らげて見詰める。
一瞬視線を落として。
雪花は意を決したように男を見上げた。
「コーザさま、本当にあちきでよいのでありぃすか?」
小刻みに震える冷たい手を包み込むようにして重ね、コーザはにっこりと笑った。
「良いも悪いも……」
そこで言葉を切って。ふ、と思い至ったように雪花を見遣った。
「まさかとは思うが、無理強いは誰からもされていないだろうな?」
コーザの言葉に、雪花が僅かに首を傾げてから、す、と視線を落とした。
「あちきが自分で決めんしたぇ、……ご迷惑でありぃしたか…?」
僅かに肩を震わせた太夫を見詰め、一瞬、く、と眉を引き上げ。ふ、とコーザが笑った。明るく、朗らかで人懐っこい笑顔だ。
そして、つい、と指先で雪花の顎を掬い上げ、
「困ったお人だね、あなたは」
そう優しく囁いた。
「おれの望んでいるのはあなただと、まだお分かりではないとはナ」
からかうような声に、ほんの少しだけ困ったように雪花が微笑んだ。
きゅ、と肩を抱き締められ、ふわ、と香った嗅ぎ慣れた香の匂いに、どきどきと胸を高鳴らせる。
そしてじっと見上げたまま、
「あちきは……太夫と呼ばれておりぃすけんど……ずっと旦那さんを騙しているのが、心苦しゅうござんしたぇ」
と呟き。堪えきれずに、ほろりと涙をその蒼氷色の目から溢れさせた。
コーザはそうっと優しく、指の腹でその雫を拭った。
そして、黒い染め粉を落としてあった、長いプラチナブロンドの睫に目線を落とし。
「溶けて消えてくれるなよ、」
そう囁くように告げた。
「雪の白より、月の白より、儚く美しい色だ」
雪花は一度、はたんと瞬き。
「あちきは廓の花でありぃすえ、どこにもいけんせん。コーザさまがお望みくださるだけ、お側に」
そう低すぎない柔らかな声で囁きを返した。そして漸く、にっこりと花が綻ぶように甘やかな笑顔を浮かべた。
ゆっくりと、目許に唇を押し当てられて。雪花はそうっと目を閉じた――――腕を伝わってくる体温が嬉しくて、漸く肩から余分な力が抜けていく。
にっこりと笑ってさらりと雪花の黒く染められた流れる髪を撫でたコーザが、甘い声で囁く。
「今日もいい月夜だよ、」
そして、すい、と手を引いて、窓際に雪花の腰を下ろさせた。
打掛を引いて太夫の肩にかけてやり、酒が乗せられていたお盆と煙草盆を側に寄せる。
肩越しに見上げてきた雪花に、またふわりと微笑みかけてからその背後に腰を下ろし。すい、と背後から引き寄せた。
ほんの一瞬だけ身体を緊張させた雪花が、またそうっと身体の力を抜き。抱き寄せられるままに体重を預けて、首だけ自分を抱く男に向けてそうっと訊いた。
「コーザさま、お寒くはありんせん…?」
くう、と笑い。コーザが、ふい、と花魁の朱色の唇を啄ばんだ。一瞬驚いたようだった雪花が、さぁ、と頬を赤く染めた。
「大丈夫だよ、ありがとう」
きらきらと無邪気に目を輝かせ。きゅう、と力強く、一瞬腕に力を込めてコーザが太夫を抱き締め、またさらりと力を抜く。
雪花は赤い顔のまま、ふわりと幸せそうに微笑み。そろ、と自分を抱き寄せている腕に手指を滑らせた。それからお盆を指で引き寄せ、先に杯をコーザに差し出す。
酒を注いでから、月を見上げ。雪花は静かに微笑んだ。
「……あちきが海に落ちた日も、こんな綺麗なお月さんが出ていんした。12の年に、父様と母様と船に乗りんして、いろんな国に寄りながら2年も旅していんした。海賊に遭ぅておらんなんだら、どうなっていんしたろうなぁ……」
優しい声で相槌を打つコーザの身体に身を寄せて。静かな声で雪花はどうやってこの国にやってきたのか、コーザに語り出した。
時折コーザがオランダ語で単語を言い。雪花がそれを英語に直し、慣れない舌でコーザが繰り返すのを、ふわふわと微笑みながら見詰め。
さらさらと腕や手に触れてくる優しい手にとろりと意識を和らげ。優しい沈黙の間に、目許や口許や頬に口付けられるのを、雪花はそれは嬉しそうに受け止め。その様子にコーザはとうとう朝陽が昇るまで、腕を解くことができなかった。
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