* 弐拾九 *
吉原:『朱華楼』雪花太夫の本部屋
優しい腕に抱かれて漸く力が抜けるまでの間、ずっと緊張していた雪花は、朝陽が昇る頃にうとうとと夢現を彷徨い始め。冬の空が優しい光りで満たされる頃には、すっかり身体をコーザに預けて眠りに落ちてしまっていた。
その細い身体を抱き寄せたままでいたコーザが、酷く幸せそうに微笑んで見詰めてきていたことは露知らず。ふ、と意識が浮上した瞬間に、ようやく自分が寝ていたことに気付いたのだった。
とろ、と眠りに蕩けた蒼氷色が薄い瞼の奥から現れたのに気付き。コーザはすい、と腕に抱きかかえたままだった太夫の顔を覗き込んで、ふわ、と目許で笑った。
「朝の挨拶は何と言う……?」
はた、とゆっくりと瞬いた雪花に、言葉を続ける。
「Goede morgenだけどね蘭語だと」
優しい声を耳に捕らえた雪花は、とろりと更に笑みを深めた。そして囁くように、Good morning、と告げ。身体を浮かしてゆっくりと伸び上がって、コーザの頬にそうっと口付けた。
「大御足痛ぅありんせん?」
そして、さらりと浴衣に包まれた男の脚を撫でて、
「あちきだけ休まして貰いんして、悪いことをしんした」
そう目を伏せて謝った。
コーザはくぅっと口端を引き上げた。
「いや……?オモシロカッタよ。太夫が色々と寝言を言っていた」
そう言ってからかいながら太夫の頬をさらりと掌で撫で、指先を髪に潜らせて遊ばせる。
「碧やサンジを叱ってたぞ」
ますます笑みの形を深めたコーザを見詰め、雪花がくすくすと笑った。
「うそ」
そして、とろん、とまだどこか蕩けたような蒼氷色で男を見詰めた。
「旦那さまの腕の中は、夢より夢心地でありんしたえ、叱るような……」
と、そこまで言ってから言葉を切って、吐息に混ぜるようにして告げた。
「……今もまだ夢のようでありんす。覚めてこの腕がなかったら…あちきはとうとう狂ぅてしまいんしたということでありんしょう」
ふわ、と微笑み、少しばかり哀しそうに視線を落とした雪花に、く、とコーザは目を細め。
「馬鹿なことを……」
そう言って、腕の中の人をきつく抱き締めた。
す、と視線が絡み合い、どちらからともなく誘われるように唇をふわりと合わせ。離れ難くて何度も重ね合わせていくうちに、少しずつ深みを増し。
啄ばんでいくだけでは足らずにそっと滑らせた舌が、喘ぐように吐息を零した太夫のそれに触れたところで、ふる、と雪花の肩が震え。最後に唇を柔らかく押し当ててからそっと口付けを解いた男が、あやして宥めるように抱き締めてくるのに、雪花はきゅうっと男の着ていた浴衣の布地を握り締めた。
その白い指先を、つい、と撫でたコーザを口付けに潤んだ目で見上げ、雪花が溜め息を零すようにそうっと訊いた。
「今日はお帰りになりぃす……?」
朱駒から散々『張りを持ちなんし!』と叱られ続けたことを不意に思い出し。きゅ、と表情を引き締めた雪花の顎下を、指先で擽り。
「おれの知り合いが、面白い都都逸をつくってな、今度教えてやろうか」
そう言ってコーザはにっこりと笑った。
そうして、そのままするりと細い顎を指先で掬い上げて、
「3日ほど、借り上げようか。さて、楼主に渡した金子ではそんなもんだが、家に使いでも出すか」
そう言って、ますます朗らかに笑顔を浮かべる。
離れ難いと思っていたことをどうにも隠し通せそうになかった雪花は、男の言葉に、ふわ、と表情を綻ばせて。
「ではその三日の間、この雪花、旦那さまのものとなりとうありんす」
そう言ってコーザの手を取り、自分の頬に添えて、するりと頬を摺り寄せた。
そして、嬉しさに潤んだ蒼氷色で男を見上げ、
「旦那さまはあちきを弱くしなんす」
と自嘲するように言葉を続けた。
そして自分を捕らえたままの男に、ふわりと微笑みかけ。
「旦那さまは優しい方でありぃすなぁ」
そう言って、少しだけ目を細めた。
「全部承知であちきと居ておくれで。それが……嬉しい」
コーザはにっこりと笑って、透けるように白い花魁の頬を撫でて。その感触にうっとりと目を閉じた雪花に、
「惚れた相手を大事にしないで一体生きてて何が面白い」
と告げて、その瞼にそうっと口付けを落とした。
廓に勤める他の人たちが起き出してきた気配に、雪花がそうっと目を開いた。そして声を心持ち強めて言う。
「唄はついぞ上手くはなりゃせんした、だから教わるのも……」
そこで言葉を区切り、今度は生来の茶目っ気を僅かばかり披露するかのように双眸を煌かせ、ふんわりと笑って囁いた。
「でもイギリスの唄ならこっそり歌っても……?」
「イギリスか、それもいいな」
そう笑って返して。コーザはもう一度だけ、ぎゅう、と太夫を抱き締めた。
「三日が明けてもまた通うさ、懐かぬ月が笑ってくれたしな」
そして、隣の部屋から躊躇いがちに、サンジが「起きられておりぃすか…?」とそっと訊いてくるのに、その腕を離した。
雪花が笑って、あい、とサンジに声をかける。
碧が先ず部屋に飛び込んできて、花魁の足元に纏わりつき。
ついでサンジが、エースを伴って部屋に入ってきた。どこかまだ眠たそうな気配のサンジは、昨夜不意の呼び出しに備えて隣の部屋で待機していたからだろう、静か過ぎるのが却って気になって、眠れなかったのかもしれない、と雪花はぼんやりと思った。
喜助のエースは、洗顔道具等を部屋に運び込み。それから、使用された形跡のない布団を片付けながら、にかあと笑ってコーザに向き直った。
「やぁ旦那にも見上げたもんだ!」
コーザがガキみたいな顔をわざと作って、
「うるせェよ」
と返すのに、軽く片眉を跳ね上げ。それから、置き行灯の油を足しに喜助がこっそりと上がってきていたのを思い出した雪花が、かぁっと頬を一瞬で火照らせたのに軽くウィンクを飛ばした。
いくら昔から仲の良い馴染みの客で、時折外で一緒に飲んだりすることもあるのを知っていても、客は客、と弁えているサンジが、「こら!!」と慌てて叱り付けてくるのに、ひゃあ、と声を上げて、エースが部屋をひょいひょいっと出て行った。
「あいすんません」
そう言って頭を下げたサンジが、畳まれたコーザの着物を台に乗せ。雪花が手伝って、コーザは手早く洗顔を済ませる。
済んだ洗顔道具をサンジが持ち出している間に、雪花が浴衣を脱ぎ出していたコーザの着替えを手伝う。
帯を留めるのに、赤いままの顔をした雪花が、どこか気恥ずかしそうにコーザに腕を回し。
その腕をそろりと撫でて、夕刻までは妓楼の用心棒であるゾロと出かけてくる、と笑って告げたコーザに、あいわかりんした、と雪花が明るく微笑んで返した。
コーザの支度が出来たところで、ナミがサンジと一緒に現れ。
「行ってらっしゃいまし」
と雪花が送り出すのに合わせて、ナミに付き添われて部屋を後にする。
その背中を見送りながら、先程まで在った切ない気持ちが、さらっと流されていることに気付いて、サンジを見上げて笑った。
「サンジ、おはよう」
晴れ晴れと笑った雪花を、サンジはじぃっと一瞬見詰め。それから堪り兼ねたように「雪花姉さま、お身体は何事も?」と訊いた。
ぽっと太夫がまた顔を赤らめ。
「どうしよう、心臓がどきどきして…っ」
そう返したのに、ほっとして。サンジは雪花を見上げて、
「心臓だけでありぃすか?」
そう確かめた。
こくん、とどこか幼い様子で頷いた雪花に、サンジはくすんと微笑みかけて。
それから気付いて、ああでも今宵は、と言葉を継いだ。
「お風呂と髪結いが終りぃしたら、お着物、新しいのんに袖を通しましょ」
そして、ふわりと嬉しそうに微笑んで頷いた姉女郎を見上げ、にっこりと笑う。
「よい旦那さまでようござんしたねえ」
もちろん、それに雪花がさらに艶やかに破顔し、頷いたのは言うまでもない。
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