* 参拾四 *
吉原:仲の町通り
太夫が風呂上りに髪結いをしてもらっている間を利用して、コーザはゾロを誘って風呂に行くことにした。
居続け客であるコーザは、頼めば女郎たちが風呂を浴びている間にでも新しい湯を沸かしてもらって妓楼にある内湯に入ることができたが。近くにいる友人が朝から暇なことを先日聞きだして知っていたので、一緒に吉原内にある銭湯に行くことにしたのだった。
太夫の馴染みに成れたことを先日聴かされていたゾロは。朝一番に部屋を覗いた、どこか満腹した狼のように満ち足りた顔をしていた友人の顔を見遣り。合点して、くぅ、と片眉を引き上げ、けれどなにも言わずに誘われるがままに銭湯へと向かった。
師範の好意で道場へと通い始めた頃から友人であるコーザではあるが、ゾロが浪人の息子であるのに対してコーザは幕臣の息子だったので、“遊び場”が重なることはそうそう無かった。だからどういう“抱き方”をするものかを知る機会は今まではなかったが。
脱衣所でさらりと着物を脱いだコーザの背中を見て、苦笑交じりに告げた。
「おい、オマエ、背中すげェぞ」
その背中に何本もの蚯蚓腫れを作っていることなど端から承知しているコーザは、けれど照れるでも慌てるでもなくゾロを見遣ってにやりと笑い。
「うらやましいか、そうだろうそうだろう」
そう言ってケラケラと笑った。
「オマエな、花魁をそこまで――――まぁあちらさんがイイって言ってンなら、それはそれでいいんだけどよ」
普通の花魁ならば、例え大見世の花魁であっても一晩に数人の客を持つこともあり。他の客の機嫌を伺って“痕”を残されたり、くたくたになるまで気を遣られることを嫌うのが常だったから、そうまでして客の背中に爪痕を残してしまう程に抱かれることなどないのが通常であったが。コーザの背中に残る痕を見れば、どれほどに深い情を交わしたのかがあっさりと解ってしまい、ゾロはあっさりと苦笑して、首を左右に振った。
「参ったね、あの太夫がそこまでオマエに気を許してるのか」
花魁道中の堤燈に照らされた雪花の顔は、触れられることを拒否しているかのように凛とした人形のような美しさだったので。例えベックマンが水揚げ料を払って暫く登楼していたのを知っていても、馴染みになった客にさえ、そうそう安易には触れさせないものだと勝手に思い込んでいた。
中見世や小見世の女郎たちが身揚りしてでもいいから寄っていってくれ、と呼び込まれること多々有り、廓のオンナたちとは全く縁が無いわけではないゾロどころか、大いに縁のあるゾロだったが。どういうわけだか、サンジが大切にしている姉女郎がそこまで情の深いオンナであるとは思っていなかった。道中の間に垣間見た顔貌がどこか浮き世離れしている所為かもしれない。
湯に浸かりながら、幸せそうな友人の様子に小さく笑った。
「よかったな。馴染みを通り越して一気に色客(情夫)扱いじゃねェの」
あの雪花太夫にそこまで惚れ込まれるとはすごいな、と言外に告げたゾロに。は、とコーザが笑った。
「そういうおまえには艶っぽい話の一つや二つ、ないのかヨ?」
「はン?あるわけ無いだろうが。惚れた腫れたでどうにかしてやれる身分でもナシ。遊びはしても、本気になんぞこちらが申し訳なくてなれるワケが無ェよ。サンジが郷に帰って戻ってきたら、オレも用心棒は辞めるつもりだしな」
ソレ以外に何ができるって訳でも無ェけど、道場破りを仕出かしていくのも楽しそうだしな、とあっけらかんと笑ったゾロに、コーザは肩を竦めて笑った。
* 参拾伍 *
吉原:『朱華楼』雪花太夫の本部屋
風呂を出てから、ぶらりと師匠のところに顔を出してくる、と言ったゾロと別れて妓楼に戻る。
玄関先を掃除していた妓夫が、挨拶を呉れて。太夫の髪結いが済んでいることを知らせてくれるのに合わせて出てきた、エースとは別の喜助に連れられ二階に上がる。
「花魁、馴染みのコーザさんがお戻りになられやした」
外から声を掛ければ、あいただいま、とナミの声が響き。す、と襖が開いて小さな禿が顔を出した。
「ようお戻りになられんした、コーザさま」
奥に促されて部屋に入る。
す、と影が差し。髪を立兵庫に結い上げた雪花が現われ、ふわりと一層艶やかな笑顔と共に出迎えてくれる。少しばかり立っているのが辛そうな様子が、いつもは凛とした雪花の姿を酷く色っぽいものへと変えているのに目を細め。楽にしているように促す。
サンジに茶を立てて貰い、一服してから枕と敷布団を出して貰い、太夫と二人で午睡を取ることにする。
横になってから、せと、と猫を呼ぶように甘く声をかければ、太夫がきょとんと見詰めてきて。それからふわりと、それは艶やかに微笑んだ。
ナミとサンジが、あらあら、とでも言いたそうな顔をして、くすくすと笑った。
雪花がそっと訊いてくる。
「あい、なんでしょう、コーザさま?」
「ゆるりとしようか、日差しが眠くてしょうがねェよ」
そう言って甘えた顔を作って片腕を広げれば。
「お側に失礼しぃす」
そう言って傍らに座り込んでから、そっとうつ伏せになって腕の中に滑り込んできた太夫の髪をさらりと梳く。
「これだけ頭が賑やかでありぃすえ、お邪魔ではありぃせんか?」
組んだ手に頬を乗せて、す、と視線を向けてきた太夫に、にっこりと笑いかける。
「むしろ楽しいよ」
そうして暫く、春めいてきた日差しに二人で温まっていれば。
「そうだ、」
そう言って、ふわりと雪花が微笑んだ。
「いつかの約束ですぇ」
そう言って、聴きなれないトーンとリズムで歌を歌い出した――――どうやらイギリスの曲のようだ。
甘く掠れた低すぎない囁くような声が耳に心地よい。
さらり、と肩や背中を掌でいとおしみながら耳慣れない歌に聞き入った。
歌が終わったところで何の曲だかを訪ねれば、グリーンスリーブス、という曲だと答えられた。
その後も賛美歌のいくつかと、船乗りの歌をいくつかを聴き。意味を聴き、上手だね、と感想を述べて言葉を交わしていれば、碧も静かに太夫の側に遣ってきて、間近で丸くなっていた。
碧を撫でるように雪花の頬をさらりと撫でれば、とろんと眠たそうな眼差しが返ってきた。
ふわりと口許に乗せられた笑みが優しい。
そのままさらさらと柔らかできめ細かな肌を撫でていれば、すぅ、と太夫が眠りに落ちていったのが解った。黒く塗られた睫が少しばかり重そうだった。
柔らかな日差しに晒された酷く無防備な横顔にはまだどこか幼さが残っていて。幸せそうに微笑んだまま眠っているセトを見詰めていれば、愛しさばかりが際限なく溢れ出てくることに、コーザは自分でも驚く程だった。
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