* 参拾六 *

中見世小見世の女郎たちが、昼に廓にやってくる客のためにほんの少しばかり見世に出る時間になって漸く二人の目が覚め。
「随分と楽になりぃした、」
とふんわり微笑んだ太夫と、静かに側に控えていた禿たちの分を合わせて、喜助に託をやって遅い昼食の蕎麦を取った。
それが済めば、花魁は花屋を呼びとめ、日課である花の活け替えに勤しんだ。コーザは禿二人が雪花と並んで花を活けていく様子を、碧をあやしながら見守り。
それすらも済んでしまえば、特にやることもなく。
「絵草紙でも読んでやろうか、」
そう言って太夫を腕の中に抱き寄せ、二人して本を眺めては何気ない言葉を交わしたり、サンジやナミも交えて歌留多遊びをして時間を過ごした。

夕刻になり、他の太夫たちが客を迎えるための準備に忙しくなると。
それまでコーザに膝枕をしていた太夫が、きらっと目を光らせてコーザを見遣った。それから、何かを決心したかのように一つ呼吸を置いてから、そっとコーザに耳打ちをする。
「コーザさまにはあちきの本当の姿を見せとうござんす……お厭いにはならんせんかえ…?」
じっと強い眼差しで見詰めてきていた太夫を見上げ、そうっと片腕を伸ばしてさらりと柔らかな頬を掌で包み込む。
「厭うはずなど、」
ふわりと微笑んだ雪花を見上げ、くぅ、と目を細める。
「十六夜の頃に、おれは天人に懸想したんだよ」
す、と僅かに顔を傾けた太夫に、窓辺に視線を投げる。
「ちょうど、あの窓のあたりかな」
「……コーザさまはお目が良ぅありぃすなぁ」
小さく笑って、さらりと雪花がコーザの目許を指先で撫でた。
「あちきを見初めてくだすったのが、お前さまでよござんした……お役人であれば、あちきはもうここにはおらんせんえ」
もう少し気ぃ付けねばなりんせんなぁ、と目を伏せた太夫の指先を捕まえて口付ける。

「あちきはお前さまに捕らわれて幸せでありんす」
柔らかな声で雪花が告げて、コーザの額に口付けを返した。
自分を優しい眼差しで見上げてくるひとが、自分でも驚くほど愛しくて。こんな運命でもなければ出会うこともなかったのかと思い、雪花は小さく微笑んだ。
「お前さまが愛しゅうありんす。何故でありぃすかねぇ?」
さら、と首を軽く引かれて、唇をそうっと啄ばむ。
柔らかく辿られて、ふんわりと微笑んだ唇を綻ばせた。そろ、と舌を一度だけ絡めて、すぐに解く。
そしてこっそりと声を落として囁いた。
「髪色を落として参りぃすえ、暫しお待ちを」

身体を起こしたコーザの膝をさらりと手で撫で。そっと立ち上がる。
そしてナミと静かに貸本を呼んでいた禿を呼んだ。
「サンジ、支度をしておくれ」
「あねさま、今日でよろしゅうありぃすか?」
「あい」
「では下の者に言って参ります。ナミ、あねさまの支度を手伝ってあげておくれ」
あい、と返事をしたナミに笑いかけてから、サンジが階下へと降りて行った。

鏡台の前で簪を一本一本落としながら、座ったまま太夫を見遣っているコーザに、雪花がはんなりと笑いかけた。
「なにやらこうして陽のまだある内に支度していくんは、どうにも恥ずかしいものでありぃすなぁ…」
染めた黒髪をさらりと背中に落とし。す、と立ち上がって、雪花が衝立の陰まで歩いていく。
一度脚を止め、すい、とコーザを見遣り。ふわりと笑みを返されて、照れたように雪花が笑った。
「失礼して行ってまいりんす」



* 参拾七 *

吉原:『朱華楼』雪花太夫の本部屋

染め粉を落とした長い髪を手拭に包み上げて。まだ夜の賑わいに忙しくなる前の妓楼の中を通って本部屋まで戻る。衝立の陰で手早く打掛を着込んで、サンジに手伝って貰って帯を締め。それから、すい、と部屋の中へと出る。
煙草盆を側に引き寄せて夕陽を背に受けるように碧を膝に抱いて本を読んでいたコーザが、す、と視線を上げてきてにっこりと笑ったのに、雪花はふんわりとした微笑みを返した。
手拭いを解いて、濡れて鈍い色合いになったプラチナブロンドをそうっと晒す。

「すこぉしお待ちになっておくんなんし」
柔らかに微笑み、鏡台の前にするりと腰を下ろした。サンジが漆の箱の中から瓶を取り出し、椿油を太夫の長い髪に塗り込んでいく。
碧が側に寄って、にゃお、と鳴いたのに雪花が見下ろせば、す、と近寄ってくるコーザの影に気付いて、ふんわりと微笑んだ。
そのまま櫛で毛先を解してから、すい、と全体を通していけば、するすると絡んでいた毛が解けていった。
「邪魔はしないよ」
そうサンジにコーザが告げているのが聴こえて視線を上げれば。
「濡れても眩しさに変わりはないな」
そう言ってふわりと目を和らげていた。
触れても?と目で訊いて来るコーザに、静かに頷いて返す。すぅ、と濡れた髪に指を通され、妙なくすぐったさを味わう。

目の粗い櫛から目の細かい櫛に持ち替え、何度かに分けて梳いていく。
濡れ光る髪をコーザの指がまた捉え、さらりと通されていった。
「陽に、消え入りそうに見える」
そう呟いたのに雪花がそっと見上げれば。向こうむいてな、と笑うみたいにサンジに告げているのが聴こえて、胸がどきっと鳴った。
横にすっとコーザが跪き。する、と毛の先を軽く持ち上げられ、そうっとそこに唇を落としていく様を見詰める。
そのまま空いていた方の手が伸ばされ、さらりとまだ湯に火照った頬を包まれた。

目を瞬いて微笑めば、する、と目許に唇がゆっくりとプレスされた。
そのまま頬を辿り、唇にも触れてくるのに、さらに口端を引き上げる。
柔らかく啄ばまれ、目を瞑り。唇を舌先でノックされて、薄く開いて迎え入れる。
とろとろと味わうように舌を擦りあわされ、僅かな苦味のある煙草を感じ取った。
ちゅ、と唇が離され。けれど手はまだいとおしむように濡れた髪に触れてくるのに、間近で微笑む。
「冷とうありぃせんか?」
囁き声に落とされた自分の甘えたように掠れた声に少しばかりまた笑みを深める。
「乾いていればもっと明るい色になりぃすえ。夕餉が終わる頃には色も戻っておりんしょう」

さらさら、とまた髪を撫でられ、雪花はくすんと笑った。
「でも明け方には色を戻さねばなりんせん、あまり今宵は……」
そう言葉を切って、どうお願いすればいいものか、さあっと顔を赤らめながら考える。
じ、と見詰めてくるコーザに困ってしまって微笑みかけ。結局、思ったまま言うことにした。
「あちきはお前さまに抱かれてしまいんすと、訳が分からんようになってしまいんすえ、お頼み申すのもなんでありぃすけんど……お前さまに頃合を計ってもらってもよろしゅうござんすかえ…?」

余りにストレートな頼み方に。傍らにいたサンジが、あっちゃあ、とでもいう風に裾で顔を覆っているのが目に入った。ナミも真っ赤になって固まっている。
コーザがくっくと笑いながら、きゅ、と雪花を抱き締めた。
「案ずるなよ、」
優しい声に見上げれば、する、と頬を撫でられた。
「わからなくさせてるンだしな」
ちゅ、と唇を啄ばまれ、けれど落とされた言葉に、勝手に顔が赤くなる。
「そのための居続けだ、起こしてやるとも」
キラキラと目を煌かせて告げてくるコーザの着物をきゅ、と握り。赤くなった顔をそうっと男の胸元に埋めた。
「お願い致しんしたえ」



* 参拾八 *

髪の手入れが終わったところで暮六つを過ぎ、軽い夕餉と酒を頼むことにした。
染め粉を落としてしまっているので、今日は通常のような酒宴を儲けることはせずに、人数分より多めに寿司と碧の分を含んだお造りを頼み。
部屋でコーザと雪花、それにナミとサンジを合わせた計4人だけで済ませることにしたのだった。
すっかり暗くなった障子の向こうからはあちこちの妓楼から聴こえてくる清掻三味線の音や、呼び込む妓夫の掛け声、往来を行く廓客などの声が響いてきて、やおら賑わい始めた様子が聴こえる。

台のものを運んできながら、流した雪花の髪が生来のものであるのを見とめてエースがあっさりと笑った。
「いやいや。太夫もなかなかやりますナ。肝が据わってるってね」
「エースさん!」
サンジに、め!と叱られ。エースがくっくと笑いながら部屋を後にしていく。

碧を膝の上に乗せ、自分は寿司を摘みながら仔猫には刺身を与えていくコーザが、酒を注がれている間にちょいちょい、と指先で太夫を呼んだ。
「セトの代わり、」
膝の上に抱きかかえて離さず、可愛がっていることを示して告げたことに、くすくすと雪花が笑った。
「碧もまんざらではなくお大尽をしていんしたのにねえ、あちきの代わりでありぃすか」
やはりあちきも鈴を下げるべきでありぃしたかえ、とますます笑った太夫に、コーザもくっくと笑う。

仲睦まじい二人の様子を、サンジとナミは困ったように見詰めた。
最早二人にできることは、できるだけ早くお腹を一杯にし。さっさと二人きりにさせることだった。
「あねさまが幸せそうで嬉しゅうありぃすけんどねえ」
ナミが小声で言って、軽く溜め息を吐いた。
「当てられ通しで堪りんせんなぁ……見ているあちきらが奇妙にこっ恥ずかしゅうありんす」

それでも2時間ばかりはのんびりと酒を交わしつつ寿司を摘み。漸く遣手の代わりにサンジがお引けを宣言する頃には、吉原は夜の賑わい真っ只中に入ったところだった。




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