* 四拾弐 *

吉原:『朱華楼』雪花太夫の本部屋

初めて男を見送ったのと同じ場所で、雪花はそうっと頭を下げた。
軽く括られた黒くて長い髪が、その背中でさらりと揺れる。
計五日間登楼していたコーザを、妓楼の他の一同も深々と頭を垂れて見送り、その背中が緩やかなくの字に折れ曲がる五十間道に消えていくのを見守った。

しばらくしてからぴしりと背中を伸ばし、そっと歩き出した花魁の風情を見て、面番所に詰めた同心たちと、会所に詰めていた番頭が揃って溜め息を吐いた。
朝陽に溶ける様にどこか透明な風情を保った花魁が、前回見送りに来た時より柔らかな物腰で、そして驚くほど色気を増していたのに、長年働いてきて遊女たちを見慣れた面々も思わずぼうっと見入ってしまうのだった。花が開くとはこういうことを言うのか、と思わず納得するような密やかに零れ落ちて僅かに香るような艶やかさだった。

行き交う物売りたちにも見詰められていることに一切介さず、静かな足取りで伏目がちに雪花は妓楼の自分の本部屋へと戻った。
先程までそこに居た人の姿が無いことに、つきりと胸が痛む。
「五日も居続けておくれでしたなぁ、」
ぽそっと呟いた雪花の手をぎゅ、と握り緊め、ふわりとナミが笑った。
「コーザさまはあねさまを本気で好いておられぃすえ、また直ぐにいらしておくれになりんす」
「……そうでありぃすね、ナミ」
「あい、あねさま」
遅れて部屋に上がってきたサンジが、雪花にふわりと笑いかけた。
「髪結いがおいでになられるまで、すこぉしお休みになっていておくんなんし」
「あい」

碧をサンジの腕の中から受け取り、さらりとその艶やかな毛並みを撫でてほんわりと微笑む。
『また何時なりと文でも寄越せ、』
そう帰る支度をし終えたコーザが、太夫の頬に触れながら柔らかな声で言ったのを思い出す。
『太夫の字は目に心地良い、いい字だしな、』
そして、ふ、と思い出したように小さく笑った。
『あァ、だけどセト。おれは“生徒”じゃねェからあまり横書きでは寄越すなよ』
――――まさか、と笑ったセトに軽く首を傾け。宛てたコーザ本人の目の前でセトが書いた英語の文を仕舞った懐の上を、ぽん、と叩いていた。
“Dear my beloved Coza,”とペンではないことに四苦八苦しながら書いたソレ。“For what fate had me brought here I had not known before, but now I know that it was for this love that God has sent me, and to be with you. What will occur in the future I have not a clue, but my soul will always be with you and will love you with all my heart. Sincerely, Seth.”
書き上げてから、そっと音を声に出して読み。それからじっとそれを隣に座って見詰めていたコーザに訳して告げた―――“愛しいコーザさま、どのような運命があちきをここに運んできたのか以前は知りんせんでしたけんど、ここでこうしてお前さまと添うためと今は知りぃした。この先のことなぞ解りはしぃせんけんど、あちきの心はいつでもお前さまのお側にありんす。お前さまを心の底からお慕いしておりぃすえ”と。
柔らかな眼差しで見詰められ、ぎゅうっと抱き締められたことを思い出した――――その瞬間に感じた驚くほどの幸せと一緒に。

『“絵師”にあなたの似姿を描かせるかとも思ったが、それよりはおれが早く会いにきそうだしな』
今朝、そう告げながら目を覗き込んできたコーザのその頬に触れたときの指先の感触も。
『だから、何も思い惑わずにいてくれ』
そう告げられて、柔らかく目許に唇を押し当てられたことも。雪花は直ぐに思い出せた。
『……雪花はずっとここでお待ちしておりぃすえ』
そう微笑んで見上げた雪花に、くすっとコーザが笑って、次に贈られるのなら何の花がいい、と訊いてきて。
『桔梗がようござんす』
と告げた太夫に、
『桔梗、か。わかった、』
そうにっこりと笑った顔も。
『庭にでも植えさせておこうか、時節はずれだな、今だと』
そう何か思案しながら言って。
『ならば、冬牡丹にするか』
とさらりと雪花の目許に触れた優しい手付きのことも。忘れられる筈がなかった。

夏までには身請けする気なのだとコーザが考えていたことには、けれど雪花には思いも寄らないことだった。だから、ふんわりと微笑んで、楽しみにしておりぃす、と告げた雪花に、コーザがくっと笑ってぎゅっと抱き締めてきたことは、ただ嬉しいことだった。登楼して四日目にあたる昨夜は、コーザは雪花をその腕に閉じ込めて過ごしはしたけれども、目合おうとはしなかったのでもっと抱き合っていたいとこっそり願うほどだった。

あんなにコーザに抱かれることを悩んでいたのに、一度抱かれてしまえば、また早くあの身体に包まれることを望んでしまう自分の欲深さに雪花は少しだけ笑った。
辛くて気持ちよくていっぱいに埋められて何も解らなくなるほどに求められて――――腰は未だにどこかずしりと重いように感じるけれども、それでもその名残すら嬉しくて。
「……I wonder do all girls feel this way too?」
オンナノコもみんなこんな気持ちになるんだろうか、とぽつんと呟いた雪花に、碧がにゃあん、と鳴いて応えた。
雪花はくすくすと笑って、仔猫の顎の下を撫でた。
「お前はまだ早ぅござんせんかぇ、あお?」




next
back