* 四拾参 *

江戸市内:ベックマン邸

「そうか、太夫は幸せそうか」
白鷲に報告を受けながら、ベックマンは知らず溜め息を吐いていた。
いくら隠すためとはいえ、廓にその身を預けさせる他なかったこと、その先で生き延びたセトがただ生き続けていたことは、ベックマンにとっては多少辛いと思える事柄だったらしい。
「難破船を救助することも、未だ拒否し続けているからな……太夫を自由にしてやることは難しいかもしれん」
幕府が鎖国政策を一向に解こうとしない姿勢は、裏で政に従事しているベックマンにとっては愚かしいこと以外に思えなかった。

2年前の九月に、長崎に居る通事に諸外国語を習うよう仕向けられたのは僥倖だったけれども、そのほかの政策は変えられそうにない。その翌年新年明け早々には難破していたところをアメリカ船に救助されていた土佐藩の漁師万次郎が琉球まで帰ってきた他、七月には琉球に西班牙船が遣って来て。年が暮れる直前には英吉利の軍艦までもが寄港していた。欧羅巴には数多くの国があり。その多くが外洋に乗り出して国を乗っ取り、開拓に精を出していることは今に始まったことではなく、いつ自国が標的になってもおかしくはないとこの二百年、知らしめられ続けてきたにも関わらず、だ。
昔から清の国とは交流のあった琉球は、いまや諸外国船の経由地とされつつある。長崎の海を海賊と漁師を装って見張っている部下からは、外国の造船技術は進歩するばかりで、いずれは軍艦が江戸近くまで到達するだろう、と予測を立てていた。
その上、蝦夷は露西亜にずっと狙われ続けていて、この先いつ大きな戦になっても不思議ではない様相を呈している。あの辺りの海域で、イギリスなどの捕鯨船が出ているという報告も受けていた。最早四面楚歌、である。
四方八方から攻められることを覚悟しなければならないというのに、幕府はいまだに慶長14年(1609年)に命じた大船建造禁止令を解こうとすらしていない。
天文の頃(1543年)に伝えられた鉄砲は、戦乱の時代を経て随分と進化はしていたが。徳川幕府が開かれてからは表向きは太平の世が続いてきただけに、戦法など時代遅れのものと化していると覚悟しなければならないだろう。国交を拒否し排他しようとこちらがその意思を表明したところで、それを相手が聞き入らなければならないという理由はどこにもないのだから。

琉球を何カ国の商船と軍艦が行き交ったかを知らせれば、少しは危機感が出てくるだろうか――――けれど米が高騰し続けている今、それが庶民に知れたら大変なことになるだろう。
外国と戦を始める前に、内乱が起こるかもしれない。一揆を起こしている農民たちばかりでなく、不公平な扱いに不満のある藩主たちもだ。何代にも続いて財政難に喘いでいる藩は決して少なくないのだから。その二つが結託することがあれば、外圧を受ける以前に幕府が機能しなくなるだろう。いまは藩主たちは幕府を倒すことなど考えてもいないようだけれども、そのスタンスが何時までも保たれ続けられる保証はどこにもない。そうなれば商人だってより有益な方に組するだろう。いま役人と組んで甘い蜜を吸っている商人たち以外は、より自由なシステムを提唱する方に組することなど、想像する以前に解っていることなのだから。
それほどまでに家康公が作り上げたシステムは疲弊してきていて、あちこちに綻びが出来ている。ただでさえ崩れかかっている石積みは、外国船というアリに突付かれただけで決壊し得る――――それが何を齎すかはまだベックマンには計りかねたけれども。徳川の世がいまのまま安穏と続いていきそうにない予感だけは、日増しに募るばかりだった。

雪花―――セトが生まれ住んだ国のことを、その国のことをこの国に役立てるべく誰よりも先に学びたいと願い。漂流者をよいことに、身近に囲ってはみたものの……。
恩はある、義理もある。けれども彼一人の身が国内問題を飛び越して国際問題を引き起こす引き金になり得ることもベックマンは承知していた。何より自分は隠密頭であり―――セト一人を庇うことより為さなければならないことが他に山とあった。そのためにはいつでもセトを切り捨てる覚悟をしていなければならなかった。それがどれほど身勝手なことであっても、だ。

ベックマンは己が罪深くあることなど、誰よりも承知している。
『オマエは隠密のお頭ってヤツにしては、優しすぎるんだよナ。本当は部下一人失うのだって嫌なんだろう?状況が状況であれば、平気で見殺しにできるクセにさ』
初めてシャンクスと交わった後に告げられたことを思い出す。
『ま、そういう所に惚れちまったからねェ、甘チャンだね、とかは言わないけどサ。オレのこともちゃんと見捨てろよ、“お館様”。いつ、どんな理由で死に別れても、恨みはしねェからサ――――その情と非情でもって、オマエの部下たちもオマエを慕ってるんだろ。この性悪めが、このオレまでコマしやがって』

承知して笑って総てを受け入れたシャンクスとは違い。セトはただ運命に流されていまの状況に陥った一人の異国の青年だ。しかも朱駒やサンジやナミやノジコや、白鷲や小熊やその他多くの忍びのように使命を言い聞かされながら覚悟と共に育ったわけでもなく、志願したり利益を見出したりして忍びになることを選んだわけでもない――――ただ運命を受け入れて生きてきただけ。
浜辺に打ち上げられていたところを見殺しにし、海に流すよりはよかったのかもしれない―――――けれども。死ぬよりは生きているほうがよかった等とは、死んでしまうまでは判断できないことだ。そしてセトの人生についてはセト一人が判断できることであって、ベックマンがどうこう言う資格など全くもってないのだった。

客を取らなくていい風に仕立てて廓で囲ったけれども、それでセトが幸せかと言われればきっとそうではないだろう。話してみれば純真で、聡明で、優しくて――――そのまま生国で育っていれば、あるいは無事に清の国に辿り着いていれば、素晴らしい人間として名を馳せていたかもしれない。普通にこの国の人間として生を受けていたならば、よもや女郎などという慰み者になることなど絶対にありえなかっただろう。セトが善き者であればあるほど、ベックマンの心は痛んだ。他に方法はなかったのだろうか、と。
そんな廓の中であってさえも一定以上の人間との接触を禁じていたから、会いに行くたびに寂しそうに微笑む姿を見ていた。廓の花には元より自由はなくても、セトはそれ以上の籠の鳥だったから、ほんの一時であっても彼が幸せであるという報告を受けるのは嬉しかった。ベックマンが彼の命を救う選択をしたことが、セトにとってプラスになっているということを知ってほんの少しだけ心が安らぐ―――――それがベックマンただ一人のエゴであると解ってはいても。

「太夫を見初めたのが三鷹屋の孫であったのを僥倖に思うべきなのだろうな」
ほんの僅かに声を和らげたのを聞き取った白鷲が、静かに頷いた。
「開国派の彼が廓に上がったときには驚きましたが」
「元より朱駒の馴染みだった若様だ、他に行くよりは朱華楼を選ぶだろう。吉原に行くのであればな」
大旦那の孫だけあって眼だけは相当良いらしいな、と低く笑ったベックマンに、白鷲が告げた。
「審美眼は確かなようで。ただの花魁で雪花を捨て置く気は最早なさそうです」
「――――身請けすることでも考えているのか?」
「その様相でありました。本人に問い正してはおりませんが、おそらく」
「――――雪花の身請け先としては理想的なんだが……」

言葉を切ったベックマンに、白鷲が頷く。
「先日も狙われておりました」
「やはり、な。出る杭は打たれる、ということか。これで登城するようになれば雪花も危険か」
「老中であるお父上の跡をお継ぎになられましたならば、その嫁の素性を検められないわけがないかと」
「――――妾ではないのか?」
「まだ迷っているようではありましたが、何分相思相愛のご様子でしたから。流石に三鷹屋の孫だけありまして、情が深くありますし」
「……許婚が居ただろう?確かビビという名前の」
「あまりそちらには熱心ではないご様子ではありますが」
「……さて困ったな。いま直ぐの話ではないにしろ、な」
「髪は染め粉でどうにでもなりますが、蒼い眼はそういうわけには」
「失明させれば誤魔化せるかもしれんが、それもあまりな話ではある――――いつでもそうできるよう、薬を持たせておくのは良い案かもしれんが、な。子供が出来ぬのが今となっては吉か。不生女だとでも言い置けば、男であることは隠し遂せるであろう」

眉根を寄せたベックマンに、白鷲は小さく頭を垂れた。す、と隠密頭の気配が引き締まる。
「……サンジを廓から出そう。武器を持たせて戦う術をもう一度基礎から叩き込め。いずれ雪花が身請けされた暁には下男として働けるように仕立てろ」
「御意」
「コーザを狙った者の素性は上がっていたな?――――隼と黒犬を見張りに着かせろ。報告を逐一するように伝えておけ」
「はっ」
頭を下げた白鷲に、下がるように告げ。その身体が塀を越えて消えていってからぽそっと呟いた。
「……先見の明が無い割りに、新興勢力を叩き潰すことに長けている古狸には困ったものだ。巣穴が猟犬に狙われているとも気付かないとは、耄碌も過ぎる。武士を束ねる者としては最早どうかな」




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