* 伍 *

半年後 ― 1852
吉原:『朱華楼』雪花太夫の本部屋

雪花太夫は、ぼんやりと本部屋の欄干に腕を掛けて、月を眺めていた。
半月に一度、夕刻に髪の色を内風呂で落とし。それが存分に渇いてから、禿のサンジと喜助のエースに黒く染めなおしてもらうのが慣例となっていた。
いまはまだ生乾きの髪を夜風に当て、乾くのを待っている最中だった。

14歳の年にこの国の海岸に流れ着き。
廓という隔離された世界に閉じ込められてから伸ばされ始めた髪は、もう腰骨辺りに届くまでになっていた。
生来緩くカールしていた髪は、染め粉の重みと毎日梳られて椿油を塗り込められる所為か、随分と真っ直ぐに伸びていた。時折それに指を通して眺めては、はぁ、と溜め息を吐く。

「姉様、あまり身を乗り出しては誰ぞに見られるやもしれんせん、もう少し」
「あい、サンジ。解っておりんす。ただもう少しだけ…」
鮮やかな赤の内掛けを羽織りなおし、欄干に預けた腕に頬を預けて目を瞑る。
土手の上に植えられた柳が、ざわざわと風に揺られて音を立てる。
その音が少しだけ潮騒に似ていて。雪花はじわりと胸の中に起こった郷愁を押し殺した。

香港島、という清の国にある場所に向かうはずだった自分。
その途中で船は海賊船に襲われ。
両親は自分を海賊どもの慰み者になるよりは、と海の中に突き落とした。
その日、海は穏やかで、月が蒼い空にぽっかりと浮かんでいた。煌びやかな沢山の星と共に。
小さな木の板に捕まりながら、自分はどうなってしまうのだろうとぼんやりと考えていたことを思い出した。疲労から小さな板を手放しそうになるのを、必死になって捕まりながら。

自分がどうなってしまうのかは、今になっても明確ではない。
気付いた時には粗末な木の小屋に運び込まれていて。優しい茶色の目をした大柄の男と、鋭い目をした細い男、そして“ベックの旦那さま”がいた。
少しだけ自分も理解できる言葉を喋った大柄な男は、自分を“ドクトール”と言い。苦い薬を手渡してきた。
多分ソレを訊かれたのだろう、名前を告げた後にもう一眠りし。眠りから覚めればこの部屋に女郎たちと、赤茶色の髪の妓楼の主と共に居た。
そして女郎としての生活が始まったのだ。

「姉様、もうこちらへ」
「あい、サンジ。いま行きぃすえ」
月をもう一度だけ見上げ、雪花は窓辺からゆっくりと身体を部屋の中に引いた。

その様子を二つの目が魅入られたように見つめてきているのに、ついぞ気付くことはなかった。



 * 六 *

吉原:『朱華楼』楼主の部屋

シャンクスは、目の前にある煙草盆に、コン、と煙管を打ちつけた。
年が明けたばかりで、日中とはいえ部屋の中は寒く。火鉢に乗せた薬缶が、しゅんしゅんと単一な音楽を奏でていた。
それを挟んだ向こう側には長らく長崎まで留学に行っていた幕臣の跡取り息子のコーザ―――実にお得意様である――――が胡坐をかいてゆるりと腰を落ち着けていた。
昔馴染みだった朱駒太夫の所へは暫く前に逗留していたが、朱駒が身請けされてからは顔を見せておらず。今日も今日とて、他の花魁に会うのではなくご内所であるシャンクスに会いたいと言って顔を出していた。
にこにこと笑う若者が、決して見かけ通りの朗らかな人間でないことを、楼主は気付いていたが。それは決して悪いことではない、と踏んでいた。少なくとも、吉原では良い客ではあるわけだし。用心棒として雇っているゾロと同じ千葉道場の門下生でもあるわけだし、信用がないわけではない。

茶を飲んで湯飲みを置いたコーザが、すい、と視線を合わせてきた。
「ご内所、あなたはひどく美しい天人をお持ちのようだけれども。ひとつ、おれが懸想した者か確かめさせてくれないか……?」
少しばかり色の薄い目をきらりと煌かせ、にっこりと若者が笑う。
「先だって、十六夜の頃から。その者の姿が離れなくてサ」
柔らかな眼差しは好奇に溢れ、それでもただ珍しいものが見たいだけ、というわけではなさそうだった。
さてさてどうしたものかね、とシャンクスはコツンと煙管を叩いてから、新たに煙草の葉を詰め直す。
いくらベックの旦那に出資されて、滅多に客前に出さない飛び切りの花魁として朱華楼に置いているとはいえ、花魁は花魁であり、それなりの客が着かなければ吉原の組合に怪しまれてしまう。
幸い朱駒が身請けされてからはコーザは馴染みの花魁を作っておらず。ここで新たに雪花太夫の馴染みとなってくれれば、金銭面からいっても雪花の保身のためにもありがたいわけだ。
長崎帰りであるわけだから、雪花のなにかを感づいたのかもしれない。十六夜といえば、雪花は髪の色を落とし、月見をしながら部屋にサンジとナミの二人で居た筈だ。その時にでも見初めたか――――それを今まで黙っているということは、少なくとも無粋なことにしたいというわけではないらしい。
シャンクスは、煙草に火を点けてから、ふぅっと煙を吐いた。
なにかあればベックの旦那から指示が出るだろう――――どのみち初会を直ぐに持たせるわけにもいかないわけだし。

じっと見詰めてくる若い武士を見遣って、シャンクスはにぃ、と口端を引き上げた。
「ウチのかぐや姫のことかい」
目を僅かに細めたコーザに、更に言葉を続ける。
「あれはオマエさまが思っている以上の者だよ、お若いの」
そうして、声をぐっと低くして、呟く。
「命がけになれなきゃ止しておきな。ただの花じゃあないからね」
静かに引き止めた楼主に、けれどコーザは怯むこともなく、ますますにっこりと笑った。
「イノチ……ねェ。こんな時世だ、惚れたオンナに命を落とすのも悪かない」
いっそ晴れ晴れと笑った客に、シャンクスは軽く首を横に振った。
「いやいや若いの、なかなか言ってくれるねぇ」

すい、とコーザが首を横に傾けた。
「座敷に上げていいかい?」
「そこまで言うなら構わないヨ」
「じゃあ、早速派手に一遊び、といこうじゃないか。太夫も総揚げだ」
けらけらと笑ったコーザに、シャンクスは苦笑を洩らした。
「身代食い潰さねェようにな、お若いの」



 * 七 *

吉原:『朱華楼』雪花太夫の本部屋

「あちきに会いたいと仰るお大尽がおいででありぃすか」
雪花太夫は軽く溜め息を吐くようにして、夕餉を下げにきた喜助のエースを振り返った。
「コーザさまだ。もう4度も花魁を呼んでますんでさぁ」
「コーザの旦那さまは良い旦那さまでありんす、姉様」
サンジがにっこりと笑って、花魁の手を取った。
「見世の用心棒のゾロとは旧知の仲。長崎に遊学にいらっしゃる前は朱駒姉様の馴染みでありんした」
「朱駒姉様の……」
「サンジも何度も頭を撫でてもらいんした。ほんに優しいお方でありんす。最近お見限りでいなんしたのは雪花姉様の馴染みになるためでござんしょ。その証に鏡やら、引き出しやら、新しい着物やら。沢山の物を、姉様の紋を入れて贈っておくれでありんす。全部コーザさまからの贈り物でありぃすよ」
禿の言葉に頷きながら、エースは花魁の薄い目を見遣ってにっこりと笑った。
「まだ若いのに遊びを理解してらっしゃる、粋なお客でさ。太夫は何の心配もいらねェよ、いつものようにお断りなすっても」
「……今日、初会でありぃすか?」
僅かに震える声で訊いた雪花太夫に、エースが静かに頷いた。
「雪花太夫の久しぶりの道中だ、廓の連中も息を呑むってね」
雪花太夫の道中は幽玄だって唄になってるくれぇだから、また中見世小見世の姉さんたちが、格子越しに溜め息を吐きなすって大変だぁ、とエースがおどけて言った。

「雪花太夫のお支度が済んだら、ナミとサンジの番だなぁ!」
「あい」
にっこりと笑ってナミがエースを見上げ、それから雪花太夫を見遣った。
「ナミもコーザさまにお会いするのが楽しみでありんす」
「いただいた金平糖、おいしゅうござんしたものね、ナミ」
ナミの髪をさらさらと撫で、サンジもふんわりと笑った。
「姉様はコーザさまのお近くには行けないけれども、あちきたちはしっかりとお礼を言いんしょうねえ」
「あい、サンジ姉様」




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