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 * 八 *
 
 吉原:仲の町通り
 
 顎を上げて、視線だけは喜助のエースの肩に預けた片手に伏せがちに落として。わあ、と華やいだ大門から真っ直ぐに廓を貫く太い通りを歩く。
 格子の向こうからは明るすぎない光りが闇に染み出て、清掻の三味線の音色と共に彩りを添えていた。
 喜助の前には、堤燈を携えた禿のサンジとナミが並んで歩き。
 背後には妹新造の染花と遣手、そして見世から引き連れてきた若い衆が続く。
 素足に高下駄は辛いけれども、足で八文字を描くことを心がけながら、張肘をした手で中の着物をきゅっときつく握り緊める。
 ざりざりり、と高下駄の下で砂が低く鳴き。その音だけに集中していれば、外野で何を言われようと気にはならなかった。かじかんだ爪先が伝えてくる外気の冷たささえ、次第に忘れた。
 
 漸く見覚えのある引手茶屋に到着すれば、両手にある茶屋の店先に並べられた女たちが唄を添えずに三味線だけを鳴らしていた。
 茶屋の顔見知りが、一度出てきて。中にいる客に伝えるために入っていったのが解った。
 茶屋の主人他一同が、店の前に出てきてずらりと並んだ。
 「お寒い中よういらしてくださいました、雪花太夫」
 主人に挨拶をされて、静かに目を閉じて頭を垂れる。
 「お久しゅうござんす、原亭屋さん」
 「ささ、中は暖かくしてあります。お早くいらしておくんなせぇ」
 「あい」
 
 履物を脱いで座敷に上がる。
 淡い光りが行灯から齎され、火鉢には赤々と火が熾っていた。
 用意された上座まで上がり、腰を下ろす。
 遣手が間に入り、引き合わされて初めて今宵の客と顔を見合わせる。
 驚くほど若い男は、柔らかな笑みを浮かべていた。
 ゆっくりと頭を下げて会釈する。
 「雪花でありんす」
 す、と見通すような眼差しで見詰められ、どきりと心臓が跳ねる。
 
 「そらの代わりに海を渡っていらしたか、ヒメは」
 そう告げられ、合わせていた手を軽く握り合わせる。
 「顔を上げてくれないか」
 柔らかい声がそう告げてくるのに、覚悟を決めてすっと見上げれば。
 独り言のように、
 「やはり同じ人だね」
 そう呟いて。よしなに、と爽やかな笑顔を浮かべた。
 
 台に乗せられ、酒や食べ物が次々と運び込まれてくる。
 若い衆や遣手が、あれはここ、それはそこ、などと遣っている音に交じって、ふ、と耳に声が届いた。
 「You look beautiful with that black hair too」
 はたはた、と目を瞬く。
 語りかけられた言葉が、耳を素通りしそうになる。
 それから、それが酷く流暢な舌で述べられた自国の言葉であることに気付いた―――――黒髪もお似合いだね、と告げられたということに。
 
 サンジがそ知らぬ顔をして、この間は金平糖をありがとうござんした、とナミと一緒に頭を下げていた。その間に懸命に、心を落ち着けようとする。
 目の色にも驚かず、髪を染めていることを知っていて。尚且つ自分の出自まで知っている男だ。本来なら警戒しなければならないのに……。
 
 母国語が齎した思わぬ感傷に、じわりと目が潤む。
 耳が、もっと喋って欲しい、と、騒ぎ立てる。
 自分が教えたサンジやベックの旦那様が口にする音でない英語を、もっと喋って欲しくて。
 きゅ、と口を噤んで、そう叫び出したいのを堪える。
 けれど男は朗らかな笑顔を浮かべたまま、長崎に居た時のことなどを口にしていた。
 初めて耳にする単語が多く、あまり理解ができずにいると。
 事を承知しているサンジや遣手やエースが間に入り、場を盛り上げてくれる。
 
 注がれた杯が二十ばかり膝の前に並べられたところで、遣手が「お引けでございます」と声にし。
 あまり会話についていけずに居たけれども、心地よい声に身を任せていた雪花は、すい、と意識を引き締めた。
 サンジに促されて立ち上がり、最後に今一度視線を会わせたいのを堪えて、エースが揃えてくれた履物に足を通す。
 茶屋の一同が一緒になって妓楼の入口まで送ってくれ。本部屋に戻るまで、随分と賑やかではあった。
 
 
 
 
 
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