* 九 *
吉原:『朱華楼』雪花太夫の本部屋
「無事に勤まりんしてよござんした」
遣手がそう言って、引き上げていき。
部屋にはサンジと喜助の3人で残される。雪花太夫付き新造である妹女郎の染花は、自分の部屋へとナミと一緒に戻っていった。
エースが花魁のための夕餉を用意していく間に、サンジが手早く帯などを外していく―――雪花だけは、一晩に独りだけの客しか取らないことを許されていた。
客を取らない夜もゆったりと過ごすことを許されているのは他の太夫ではありえないことだ、と朱駒に教えられてから、雪花は一人一人の客を大切にするようにはしていたけれども……今まで二度会った客はいなかった。
「エースさん」
声を掛ければ、くるりと軽やかに喜助が振り向いた。
「なんでしょ、花魁?」
「少しだけ移したら、あとは皆に食べるものを分けておくれね」
「解りました」
「そうしたら戻ってきて、ね?」
雪花が首を傾ければ、にっこりと喜助が笑って頷いた。
「言葉の勉強ですね。解っておりやす。先にサンジと食べながら始めていておくんなさい。腹が減りましたでしょう?」
「喉が渇きんした」
雪花の言葉にエースが頷き、くるりと禿に向き直った。
「サンジ」
「あい、姉様、ただいま」
廊下に居た、雛菊太夫に付いていた喜助の手を借りて、エースが板に乗った皿などを下げていく。
熱い番茶をサンジに淹れてもらい。それをゆっくりと口に含んでから、ほっと雪花は溜め息を吐いた。
その間にも仕事を終えた喜助たちが部屋を後にしていく。
人気が無くなったことを感じて、雪花がす、とサンジに視線を向けた。
「コーザさまはどこまで解っておられるサンジは考えなんす……?」
「姉様の髪のことは気付いていんした。長崎には阿蘭陀さんも沢山住んでいると言ぃんす、英吉利のお人も見たことがあるやもしれんせん」
「けんどあちきが花魁とはいえ……」
言葉を区切った雪花に、にこりとサンジが笑った。
「あね様はコーザ様を好いておりゃんすか?」
「サンジも聞きんしたであろ、コーザさまが英吉利の言葉をお口にしぃしたのを」
「あい。コーザさまは勝先生に蘭語を習いんしたと、前に朱駒の姉様に言っておりゃんしたえ、もしかしたら姉様のお国言葉もあちらで習いんしたやもしれんせん」
「それだけでも……もう一度、お会いしたい。あちきに会ってあの言葉で語りかけておくれんした旦那さまは、他にはおらんせん」
ほろ、と思わず涙を零した雪花の手を、サンジはそっと握った。
「コーザさまは好い漢だもの。あね様は、他には居ない今かぐやと呼ばれる程のお人でおりんす。馴染みに、とお望みになられんしたとしても、不思議ではありんせん。それに、たとえあね様のことを知っても、あね様を裏切るようなことをしぃすようなお人ではありんせん」
「ベックの旦那さまには、なんて申し上げよう…」
「旦那さまが姉様をここに遣わしんしたえ、もしあね様がまたコーザさまにお会いしとうござんしたら、何とでもして」
力を入れて言葉を継いだサンジの手を握って遮る。
「あちきは女人ではありんせん。そのことだけが辛い……異人であるのも、女郎であるのも、仕方ありゃんせん。コーザさまもそのことはご存知のご様子、いえ、知ってあちきをお呼び出しになりぃしたのやもしれんせん……けんど」
あねさま、コーザさまに惚れんしたね。そうサンジに告げられて、雪花は裾に顔を埋めた。
「惚れたのかどうかはわからんせん。ただ好いてはおりんす、今一度、声を聞きとうござんす。ただそれだけ……もし次があるとすれば、それは裏。床入りはしなんせん、だからもう一度だけはお会いできる……」
「ベックの旦那さま、近頃お忙しいようでお見限りではありぃすけど、あね様のことを放っておくようなお人ではありんせん。明日、旦那さまに文をお出ししんしょ。裏までは七日ありんすえ、それを過ぎても三度目まではいましばらく日にちがありんす。気を強くもっておくんなんし、あね様」
サンジさん、と外から遣手に声を掛けられ、サンジがそっと廊下に出る。
花魁はぼんやりと、コーザが贈ってくれた食器などに盛られた食べ物を見詰めていた。
耳にはまだ柔らかな笑い声などが残っているような気がしてきつく目を閉じる。
「Why him? Why now? Why here…?」
ぼそりと呟き。子供の頃に下げていた十字架のあった辺りの布地をきつく握り緊める。
「Lord, what fate have you for me…?」
主よ、どんな運命を私に課したのですか、と呟き。眦に残っていた涙を、雪花は袖で、きゅ、と拭った。
* 拾 *
吉原:『朱華楼』楼主の部屋
「少し痩せておいでだね?」
シャンクスにそう言われて、雪花は僅かに視線を落とした。
「ああ、かまわんかまわん。雪花太夫は色っぽくおなりだね、ってんで廓じゃあ噂の持ち切りさ。あの雪花太夫が恋をしなすった、白い花が赤く色付いてよいじゃないか、とさ」
「ご内所さま、」
「なんだい?」
「昨日は南蛮の硝子皿に乗せた御菓子を頂きんした。文にはまた会いたいと」
「そう」
よかったじゃないの、と楼主がにっこりと笑うのに、雪花は苦しげに眉根を寄せた。
「またお会いしてもよろしゅうござんしょか、あちきは…」
言葉を切った太夫に、シャンクスは首を傾ける。
「雪花、オマエさんが嫌ならいいんだよ、お断りしても」
「……嫌ではありんせん」
「だったらいいじゃないの、お受けよ。裏を返しても、絶対に同衾せにゃいかんってことでもないのヨ?そこいらの切見世の百文サンじゃなくて、オマエさんはここの花魁なんだからね」
からかうように呟いたシャンクスに、雪花は頭を振る。
「そんなことはできんせん」
「でもそれがオマエさんの本来の仕事なのヨ、女郎っていうね。気持ちよくお客さんを掌で転がしていい気分にさせたまま貢がせる……大見世の花魁は見世を張らない分、馴染みの客だけが頼りだからねェ」
ま、オマエさんはベックの旦那の英語の先生だけどさ、と笑ったシャンクスに、雪花は静かに溜め息を吐く。
「ベックの旦那さまは一体何をお考えなんでありんしょか。何を思って廓なぞに」
「そりゃオマエさん、この国が黒目黒髪でないものを厭うからさ。オレだってちびの頃は鬼だのなんだの散々言われたくらいだ。オマエさんの金の髪に青の眼を見たら、妖だ、ってんで見世物小屋行きどころか殺されちまうぜ」
「でも、コーザさまはあちきを見詰めてくれんした。国の言葉で語りかけてくれんした」
呟いた雪花の言葉に、おやまああのお坊ちゃんは、とシャンクスは呟く。
「随分とオマエさんに懸想したもんだね」
「そんなにして思っていただきんしたら、恩を仇では返せなせん」
雪花の言葉にシャンクスが小さく微笑んだ。
「――――オマエさん、本当のところはどうしたいんだい?」
「わからんせん。あちきはまだ女人の方ですら抱いたことはありんせん。ましてや男の人は」
「そっか。まあゆっくりと考えナ。オマエさんがアレに抱かれてもいいと思うんなら、三度目も受ければいい。嫌なら裏を返した後でお断りしな。どう覚悟を決めるかはオマエさんが選ぶことだ」
視線を落としたままの雪花太夫の頬をさらりと撫で、シャンクスは花魁の額にそっと唇を押し当てた。
「ベックの旦那にはちゃんとお知らせしたからね。あんまり考えすぎるなよ」
「あい、ご内所さま」
「いい子だ、雪花。美しくおなり。誰もオマエさんを見請けしようなどと思えぬくらいに」
「……あい」
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