* 拾壱 *
吉原:『朱華楼』ゾロの部屋
よぉ、いるか。そう言って部屋を覗いてきた同門の若侍に、ゾロはひょい、と目を開けた。
時刻は朝方、見世の女郎たちが起き出した少し後。
先程、雛菊太夫付きの喜助が、何やら文を大事そうに抱えて戻ってきたところだった。
昨日は昼過ぎにエースが手紙を引き取りに行き、夕刻に返事を出しに行っていた―――お断りの手紙だ、と笑っていた。差し出す相手は目の前のコイツ、コーザだ。
身体を起こし、鉄瓶から湯を湯呑みに注いで差し出す。
腰のものを畳に置いて、コーザが静かに火鉢の前に腰を下ろした。
にか、と笑顔を向けられて、身体を起こす。
近頃道場に顔を出していないようだが変わりはないか、と訊かれ、別に、と応える。
それからしばらく、千葉道場の師範の話しと、近頃コーザが入れ込んでいる“勝先生”の話しをした――――外に眼を向けるべきだ、と。諸外国との付き合い方を変えていくべきだ、と、そんなことを。
ゾロに興味のあることは、自分が強くなることだけだった。コーザと同じ道場に通いはしても、開国論にも治世にも興味はなかった――――自分に出来ることなどたかが知れているのだから。
祖父の代から三代続いて浪人だ、今更どこかに仕えようとも、名を上げようとも思ってもいなかった。だからこのまま吉原の大見世の剣客で、時折誰かと遣り合えれば、それで一生を終えても構わないとすら思っていた。
用心棒に雇われてから纏まった金子が懐には入るようにはなっていたけれども、それも時折小見世で袖を引くオンナたちと酒につぎ込めば余りも多くは残らなかった。
嫁を貰う宛てがあるなら、いくらか溜め込むことも考えなくもないが――――二親こそ亡くし身軽であるといえば身軽だが、貧乏暮らしが約束されている浪人の元になど、誰が来よう。
腐っても武士の階級にある限り、町娘を娶ろうなどとは考えていなかったし、どこぞの国侍の娘御など自分には過ぎていたし、同じ浪人の娘など首を括るか括らないかの生活しか待ち受けていないと解れば番うことなど問題外だった。
それにどうせ娶るのなら、見てくれはともかく働き者がいい――――独楽のようにクルクルと回りながら、楽しく家のことをしてくれる嫁ならば、どんなに貰い甲斐があるだろうか。少しおきゃんで、笑顔が愛らしく。強請る声が糖蜜のように甘酸っぱければどんなに生き甲斐にできるだろう―――サンジのように。あれはまだ禿だけれども、もう半年もすれば、雪花太夫付きの新造になるのだろう。
あれを身請けできるのならば、それもいいけれど――――廓の生活が大変とはいえ、朱華楼は他の見世など比較にならないほど、女郎も若い衆も待遇のいい見世だ。食に関しても、居住に関することにしても。
そしてソレはゾロが差し出してやれないものだ――――そもそも身請けできるほどの金子すら作れないのを自覚している。何せ朱華楼は吉原に残る最後の大見世だ、一度座敷に呼んで一寸顔を見ただけでも昼夜併せて1両二分は取られる。お祝儀、飲食代、その他諸々を含めば、いったい如何程になるのか。ましてや身請けとなると……。
火鉢を挟んで反対側にのんびりと座る男が吉原に通って雪花太夫を呼べるのは、こいつの祖父が豪商であり、母親が一度旗本の下に養女として貰われた後、幕臣である父親に嫁いだからだ。祖父にも両親にも愛されて、“いましか好きにできるときはないから”とたんまりと遊ぶ金を貰っているコーザだからこそできることであって、並みの国侍ではよほど後ろめたいことをしていない限り、大見世の花魁など呼べやしない。ましてや身請けなど、コーザ程の財力があってさえ、家が傾くのを覚悟しなければならないだろう。
先の売れっ子花魁朱駒が身請けされた先は、江戸界隈にいくつも店を持つ大旦那だ。後家として入って、別宅を宛がって貰い。手習いの師匠として廓に時折戻って来ているのは良人が粋な大旦那だからであり、これが並のお店の旦那であればケチくさくて大見世の花魁は鼻にも引っ掛けなかっただろう。
ゾロが買い置いていた酒を湯呑みに注いだコーザが、剣客をちらりと見遣った。ゾロは黙って自分の湯呑みを差し出す。自分より2つ年上の男は小さく笑って、けれど静かに酒を注いでくれた。
「見初めたときは、もっと儚い風情の者かと勝手に思っていたが。太夫は生き生きとしていてイイな」
そう言ってコーザがにっこりと笑った。
「口数は噂通り、見事に少ねェけどさ。その代わりに、目が話し掛けてくる。それだけでイトオシイってんだからオレもやきが回ったネ」
「ふゥん?」
そうかね、とゾロは片眉を引き上げる。この男が滅多に外には出されない“雪花太夫”にご執心なのは、吉原の誰もが知るところだ。
花魁は禿とは違って、さあ文だ、菓子だ、と言って外に出てくることはない。格子の中から覗き込めるようなつくりになっている小見世や中見世と違って、大見世の女郎たちは自分たちを通りの客に見せて気を引いたりはしない。
見世の若い衆ではなく、一室を宛がわれているだけで剣客であるゾロは、二階にある女郎たちの部屋に上がることもなければ、見世の奥にすら足を運ばない。だから正直のところ見世の若い衆や禿たち、主にサンジが話す以外に雪花太夫のことを知らなかった。
何度か道中が在って、その時には見かけたけれども。天女だ、今かぐやだ、と言われている顔をまじまじと拝んだこともない。
だからゾロが思い出せるのは、見世を出る時、または帰る時に偶々居合えば、喜助のエースの肩に片手を預けた花魁が、静かにそっと頭を垂れる仕種だけだ。自分のようなヤクザもの一歩手前の者にまで、丁寧に挨拶を呉れるのは、今は見世にはいない朱駒と雪花だけだった。朱駒は声もかけてはくれたけれども……。
「ああでも会えば必ず挨拶はしてくれるよな」
そう言い足し、花魁の優雅な仕種を思い出して、ぺこりとコーザに頭を下げてみせる。
「朱駒の師匠もそういや、案外芯が強ェと言ってた」
くぅ、とコーザの目が笑みに崩れた。
「ハ!存外オマエ、まねが巧いんだネ?」
けらけらと明るい笑い声が小さな部屋に響く。
「想像がついちまった、」
腕が伸ばされ、ぺし、と頭を叩かれた。
ゾロは、は、と笑って湯呑みの酒を飲み干した。
今更この男に、花魁に惚れているのかどうかなど確かめる気もなかった――――最初にコーザが花魁を“見初めた”時から、その目は花魁への気持ちをそれは雄弁に語っていたのだから。
何度も断られることが通例とはいえ。金子を惜しみなく太夫のために費やす友のために、ゾロは新たな酒を注いでやった。
「ああでも、その太夫のことだけどな。サンジが言うには、花魁、最近ちょっと元気がないらしいぞ?」
「太夫が気鬱……?」
ふん、とコーザが少し考えるようにしてから、くっと湯呑みの酒を飲み干した。
「その手の病に罹るような者には見えなかったが、」
口許が笑みを刻んでいても、心配気な様子までは隠しきれていないのに、ゾロも僅かに口端を引き上げる。そして次に告げられた言葉に、ますます笑みを深めた。
「手慰みか気晴らしにでもなればと思って猫を贈ったが、ちょうどイイ按配だったね」
「ほう。猫か」
酒を注ぎ返され、僅かに濁った液体が湯呑みに満ちるのを見守れば、にか、と笑ってコーザがゾロを見上げた。
「そう、猫。けどまァその気鬱が、ご法度の恋煩いであれば。これほどウレシイことはねぇけどサ」
その少しばかり嬉しそうな具合に、ゾロも小さく笑みを零す。
けれど、あ、と思い当たったように口を開いたコーザに、なんだ?とゾロは視線を返す。
「いまのをサンジには言うなよ、またおれが怒られる」
くく、と酷く無邪気に笑った友に、ゾロはさあね、と肩を竦めた。
「オマエ、案外サンジに怒られるのも楽しんでるだろう?けどま、怒られるならオレもついでに怒られてやるさ」
同門のよしみでな、と笑ったゾロが、酒を掲げた。
「けどま、今日は太夫には会えないんだろ。だったらもっと呑め。なんだったらオレのところに泊まってってもいいぞ。国侍になったら暮れ六つ(日の入り)が門限だ、居続けどころの話じゃなくなる。オレのところってぇのが周りにバレたら、面白い噂になっちまうかもしんねェけどな」
「お。そいつはアリガタイ、けど同時にアリガタかねェなあ。雪花太夫が当て馬でおまえがおれの本命かよ……!」
そう言ってケラケラと笑うコーザに、ゾロがバァカ、と低く笑った。
コーザがにかりと笑ってゾロに言う。
「ならば遠慮なくいくか。もっと酒をもってこさせようぜ」
ゾロが立ち上がりながら返事をする。
「奢りなら断りはしねェよ―――――ちょっと待ってろ。中に頼んで分けてもらってくる」
そして、にぃ、とコーザに笑いかけてから部屋を後にした。
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