* 拾弐 *

吉原:『朱華楼』雪花太夫の本部屋

「お前さんの手は随分と上達したねえ」
感心したように朱駒が呟き。雪花は筆をそうっと皿に下ろした。
昨年、江戸で一番人気の和菓子屋の大旦那の後家に、と望まれて身請けされた朱駒は、いまは手習いの師匠として時折朱華楼に通ってきていた。
「言葉を覚えるのも早うござんしたけど、文字ももう申し分ありんせん。ナミも早うこれくらいにおなり」
雪花の隣で静かに紙に向かい合っていたナミが、あいお師匠さん、とにっこり笑って朱駒を見上げた。
「源氏に日記と、随分と読み進みんしたけど、花魁はよぉく覚えておりぃすなぁ」
にっこりと笑った朱駒に、さらりと雪花が首を振る。
「お師匠さんには当分追いつけんせん。せめてこれくらいは、と思いぃすけど……」
「ま、それでも雪花太夫はようやっておりんす。あとはもう少し、張りが出ればねえ。とはいえ、張りのある花魁なんぞ、もう長うはやっていけんせん。お前さんらの代が過ぎたら、大見世は苦しゅうなるやもしれんせんえ、いまの内にしっかりとおやり」

あい、とナミとサンジが応えたところで、遣手の声が廊下から響いた。
「あい、ただいまぁ」
ナミが応えて障子を開けると、喜助のエースが竹で出来た小さな籠を差し出してきた。
「雪花太夫に直接渡すように、と言われましてさあ。上がっても?」
「あい、お入りんなって」
「へい。こいつは床に置きやすよ。こっちが…花魁宛ての文でさ。コーザ様からでやすよ」
部屋に入ってきたエースが竹篭を火鉢の側に置き。畳んだ手紙を雪花に差し出した。
「あね様、あね様。早うお開けんなっておくんなんし」
ナミがにっこりと笑って、手を叩く。
「ああ、その前に。嫌な予感がするよ、その墨やらなんやらを先に片してしまいんしょ」
朱駒がサンジとナミに素早く告げ、禿二人が素早く習字の道具を片付けていく。

ちりん、と鈴の音が響くのに、ナミとサンジは顔を見合わせて笑った。
雪花もそろりと竹篭の止め具に指を掛け、そっと蓋を開けた。
その中には瑠璃色の別珍の座布団が敷き詰められ。金の鈴が着いた水色の別珍のリボンを首にかけた真っ白い小さな毛足の長い猫が、ひょこん、と顔を覗かせた。
にゃあん、と一声小さく鳴いた猫の双眸が自分の目と同じことに気付き、雪花は僅かに目を見開いた。

「おやおや。珍しい目の色の猫だねえ。コーザさまは相当花魁のことを好いておりゃんすなあ」
朱駒が朗らかに笑い、サンジとナミは互いに目配せをしてから微笑んだ。
雪花はそっと手紙を開き。それが少しばかりたどたどしいけれども、英語で書かれていることに瞠目した。
『Please take a good care of her. She is a visitor from Turkey』

「コーザさまはなんて…?」
そっとサンジが顔を覗き込んで来たのに、雪花はゆっくりと息を呑んでから言葉を継いだ。
「“世話をよろしゅう、土耳古から来なんしたお客人でありぃすえ”」
「まあ本当に?……姉様みたいな色合いで素敵」
うっとりとナミが猫を見遣って笑った。
「粋な贈り物をなさりんしたねえ、コーザさまも」
くすくすと朱駒が笑って、浮かない顔のままの雪花を見遣った。
「丁度墨も紙もまだ近くにありんす。お礼を認めんさい」
「その前に……この子に名前を」

自分でも声が震えるのが解った。
好かれている――――それは誰に言われずとも、雪花自身が感じ取り、信じていること。
だからこそ、これだけの好意を惜しげもなく男でありながら自分という女郎に寄越してくれる気持ちに応えられないだろうことが辛かった。
騙している気分が、罪悪感を募らせる。

「まあ、この子はなんて顔をしているんでありぃすか!これほどのものを贈られた自分をもっと誇りなんし!!」
ぴし、と朱駒に叱られ、雪花は頭を振りながら、白い小さな猫を抱き上げた。
仔猫は嫌がるでもなく、すんなりと雪花の着物の裾に包まれ、にゃあん、と甘えた声を出した。
それを聞いてたまらず、雪花の目から涙が零れる。
「……もっと自分を強く持ちなんし、雪花。お前さんはあのコーザさまの気持ちを、たった一度の顔見世で掴んだのでありんすえ」
「だからこそ辛い……思われるほど、罪の気持ちが湧くのでありんす」
仔猫を抱き締め、ほろほろと涙を零す雪花を、そうっと朱駒が抱き締めた。
「雪花、よくお聞き。廓は浮き世、あの門を抜ければどうあってもあちきら女郎とお侍さまが結ばれることはありんせん。いくらコーザさまが身請けなさってくれんしたとしても、あちらは武士、こちらは元女郎、納まってもせいぜい妾か後家がよいところ。お家のこともありんす、図々しくもお殿様の正室なんぞにあちきらはなれんせん。コーザさまが身請けしてはくれんせんしたら、お前さんとコーザさまの仲はそれまで。こちらが追いかけていくことなぞ、夢のまた夢でありんす。そうなる前にせめてコーザさまがお前さまに払った分、お前さまはコーザさまに返す義務がありんす。一度の夢、それで結構じゃありんせんか。ここに居る間くらい、コーザさまがお前さんを思っている間くらい、応えてもよござんせんか?」
朱駒の言葉に、雪花が声を押し殺して涙を零した。
「ましてやお前さんは普通の女郎ではありんせん。コーザさまもそれはご承知の様子。だったら一世一大の大勝負、賭けてみるだけの価値はありんす。そうではござんせんか、雪花?」
ぴし、と強い声に、雪花は低く嗚咽を洩らした。

「厭われることを考えていなんすか、雪花?」
低く問われて、雪花は静かに頷く。
はぁ、と朱駒が深い息を吐いた。
「お前さまはもう恋の病に罹ってしまいんした。お医者さまも、草津の湯もお前さんの病を治すことはできんせん。雪花、覚悟をしなんし」
「朱駒姉さま…」
「あちきら吉原者に恋はご法度。女郎の恋は女郎を狂わせ、破滅に追いやるのが関の山。けれどお前さまはただの女郎ではありんせん。たった一度の恋で身を滅ぼしても、何の悔いがござんしょ。良いですか、雪花。あちきが言いたいのは、それくらいの覚悟を持ちんさい、ということでありんす。――――もしコーザさまが行ってしまわれたとしんしても、お前さまに寄せた想いとして、その白猫は残りぃすな?それならばきちんとおし」

ぽんぽん、と背中を軽く叩かれ、雪花はこくんと小さな頷きを返した。
「少し落ち着きんしたら、筆をお取りんさい――――ナミ。雪花にお茶でも淹れておあげ」
「あい、朱駒の姉様」
す、と朱駒の気配がまた自分に向けられたことに、雪花は視線を上げた。
「折角の白猫が、お前さんの涙に濡れてしまいんしたえ――――ほんに綺麗なお目目をしていなんすなぁ」
「……姉様」
「なんでありぃすか?」
「猫の名前、決めんした」

抱き込んでいた仔猫の目を覗き込んで、とん、とその眉間に唇を落とす。
「碧、と名付けんした」
「あお。良い名でありぃすな。ご内所さまにも見せんといけんせん」
にっこりと朱駒が微笑み。真っ白い仔猫の背中を撫でた。
「姉様、ナミにも抱かせてくれんせんかぇ?」
真っ直ぐに見詰めてくる禿に、雪花はふんわりと微笑んだ。
「あちきが文を書いている間、お世話を宜しく頼んますえ。エースさんを呼んで小さな箱か籠を貰ってきておくんなんし」
「あい、姉様――――何にお使いしなんす?」
「仔猫は手水場へはいけんせん。ね?」
「あい!」

くすくすと笑って、ナミが廊下へと出て行った。
サンジは猫を繋ぐ紐がどこかに、と言いながら小さな箱の中を引っ掻き回し始める。
雪花は猫を床に下ろし。足と手を揃えてゆっくりと頭を下げた。
「姉様、ありがとうござんした」
「顔をお上げ、雪花」
姿勢をゆっくりと戻した太夫の頬をさらりと撫で、朱駒がふんわりと微笑んだ。
「そう急いて覚悟を決めんでも良ござんすよ?恋はあちきらを綺麗にする―――お前さんも悩んだ分だけ綺麗におなりだね」
「姉様……」
苦笑した雪花に、朱駒はくすくすと笑った。
「良いではないの!今かぐやと呼ばれているんだもの、もっと綺麗におなり。月の精ならそうそう簡単には人の手には堕ちぬもの、旦那衆が悔しがっても、ますます竹取物語の様ではありんせんか」

ただいま戻りんした、と声をかけて戻ってきたナミと共に、手ごろな大きさの箱を携えたエースがそれを床に置いていった。
雪花はナミに半紙を渡し、縦に千切って箱を埋めるように告げ。ご一緒しましょ、と笑った朱駒が、ナミと共に作業に取り掛かった。仔猫が小さな毛玉のように、ひらひらと揺れる紙に誘われて小走りに駆けていくのに、きゃあ、と軽い嬌声が上がる。

雪花は文台に向き直って、墨を擦り直し。すこしばかり考えてから、墨に筆を浸した。
軽く息を吸い込んでから、香が焚き込められた紙にさらさらと書き出す。

『コーザさま。猫をありがとうござんした。目の色に因んで碧と名付けんした。お前さまの気持ちだと思い大事に育てとうござんす』

それから紙を乾かしている間に、紅を塗りなおし。渇いたところで畳んで、せめてもの気持ちを込めて、そうっと上を唇で食んだ。
後程手紙を受け取ったコーザが、文を読んでふわりと柔らかく目を細め。大事に文箱に仕舞ったことは、けれど太夫はついぞ知らず終いだった。





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