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 * 四拾八 *
 
 吉原:『朱華楼』雪花太夫の本部屋
 
 コーザと勝が用心棒であるゾロの部屋に訪れている間に雪花の風呂と髪結いが終り。二人が戻ってきてから、禿たちをも交えた遅い朝餉となった。
 台の物が下げられ、ゆったりと寛いでイギリスの話などをしていた太夫の元を、妓楼の主であるシャンクスが喜助のエースを伴って訪れた。手に持った文を握り緊めていて、常に無く随分と苦い顔をしていることに、雪花が首を傾けた。
 「どうなさいんした、ご内所さま?」
 「悪い報せだ…」
 部屋を出ようか、と顔を見合わせたコーザと勝を、シャンクスが手でおしとめた。
 「いや、勝サンは存じ上げないと思うが、コーザの旦那サンは知っていらっしゃる。禿だったサンジのことだ」
 
 コーザの隣に腰を掛けていた雪花が、楼主の言葉にす、と視線を上げた。
 「サンジがどうしたのでありぃすか?まさか…」
 口許を着物の袖で抑えた雪花に、シャンクスが静かに頷く。
 「郷の直ぐ近くの山で、迎えに出ていた者と一緒に山犬の群れに襲われたと。到着に時間が掛かっていたことを心配した郷の者が探しに行った時には、既に手遅れだったらしい。街道から外れた山奥にある小さな郷なだけに、まだそういったことが時折あるそうだ。近年は少なくなっていたと聞いてはいたのだがな……」
 
 息を呑んで大きく見開いた雪花の目いっぱいに涙が盛り上がり。ぽろ、とそれが零れ落ちていった。
 「……サンジが…っ」
 「奉行所の者が現場を確認にいったが……」
 言葉を切ったシャンクスから目を逸らし。ひどい、と雪花が呟き、堪えきれずに嗚咽を漏らしはじめ、倒れ込むようにコーザの肩に縋った。
 それでも懸命に嗚咽を堪えて震える雪花の細い肩を包み込むように、コーザがぐっと太夫の細い身体を抱き締める。
 
 涙が零れ落ち続ける頬にそうっと唇で触れて。小さな声で、セト、と名前を呼ぶ。
 「流せるだけ涙を流してやればいい、抑え込むな」
 一呼吸置いてから、慟哭する雪花の声が部屋に響いた。
 同郷であるナミとアディも、一緒に来ていたエースの脚にしがみ付くようにして泣き声を上げる。ぎゅう、とエースが二人を引き寄せて抱き締めた。
 
 「優しい子だったな、笑った顔しかおれも思い出せねぇよ」
 痛みを堪えていると解る低い声に、雪花がさらにコーザの肩にしがみ付いた。
 「セトのことが大好きだと、おれに話してくれたよ」
 「コーザさま…っ」
 最早声を抑えることが出来なくなった雪花の背中を抱き締め。優しくその背中をコーザが撫で下ろす。
 
 勝はしばらく呆然としていたものの。
 「犬かよッ」
 そう吐き捨てるように口中で言った。
 「だからおれァあの畜生が嫌ェなんだ、」
 うっう、と嗚咽を漏らしながら顔を上げたナミとアディの頭をそれぞれ撫でて。そうっと優しく二人に言った。
 「こんどから見かけたら蹴ってやんな、お江戸の犬どもは腰抜けぞろいでやがらァ」
 「勝さまァ、」
 泣き笑いを浮かべたナミとアディに笑いかけ。苦い顔でじっと見詰めてきていた楼主と目を合わせてから、震える花魁を大事に抱え込んでいる弟子の肩をそっと叩いた。
 「いてやりな、なに、外はしばらく心配しなさんな」
 
 まだ小さく泣きじゃくる雪花を胸元に抱き寄せてから、コーザは勝を見上げた。
 「明日には、」
 そう言って軽く頭を下げた弟子に、勝は小さく微笑みかけた。
 「無理しなさんなョ、どちらも大事だ」
 小さく頷いたコーザの意識がまた男の胸元に顔を埋めたまま震えている花魁に戻されたのを感じ取り、腰を上げた勝を見て。シャンクスが客を送っていくよう、エースに顎をしゃくって合図する。
 禿二人を脚から引き剥がした喜助が、そっと勝を促した。静かに、二人が花魁の部屋を後にする。
 
 シャンクスは客が消えたのを目で追ってから、互いに縋って泣いている二人の禿の背中を押して、部屋を出るように促す。
 廊下で、二人の部屋を指し示し。暫く休んでおいで、とナミとアディに声をかけてやってから、今度は用心棒であるゾロに報せるために、妓楼の階段を下りていった。
 
 誰もいなくなった気配に、そっと雪花が呟いた。
 「……どうして、サンジが…っ」
 そこまで言ってまた新たに哀しみを深めて泣き出した太夫を強く抱き締め。コーザはその泣き濡れた頬や目元に口付けを落としていく。
 濡れた蒼が一瞬男を捕らえ。けれどまた堪えきれないように閉じられていった。
 その涙を唇に受け止め、何度も、セト、と名前を呼び。肩を震わせるようにして泣いていたセトが落ち着くまでずっと抱き締めていた。
 
 やがて泣き疲れたのか、セトが漸く小さく息を呑み。そっとコーザの胸から顔を離して、小さな引き出しに手を伸ばした。
 懐紙に包まれた小さな髪留めを取り出し、それをそっと両手で持ってコーザに差し出す。
 「これをどうぞ、ゾロさんに持っていっておくんなんし……。サンジにはよぅしてくだすった方と聞いておりぃすえ。お前さまのお友達でもあるとお聞きしぃした。どうか…っ」
 そう掠れた声で何とか言い切り。けれどそれ以上は堪え切れなかったのか、新たな悲しみに襲われて着物の裾で顔を覆って泣き出した雪花をそうっと引き寄せて、その額に唇を押し当てた。
 「あァ、渡すとも」
 手の中に引き受けた髪留めを見下ろし、目を瞑る。それを挿していたサンジの笑顔を思い出し、く、と喉元が締め付けられるように感じた。
 
 気配を感じ。そうっと心配そうに顔を覗かせた遣手に合図して、布団を敷かせる。
 「少し休め」
 雪花の上掛けを落とさせてから抱き上げ、そうっと布団の上に運んでやる。
 顔のあちこちに唇をそっと押し当てながら髪留めを引き抜いてやり、楽な姿勢にしてやる。
 布団の上掛けをかけてやり。けれど伸ばされた手を引き寄せて、それにもそっと唇を押し当てた。
 上掛けの上から雪花の隣に横たわり。今は静かに涙を零す太夫の黒髪をそっと梳いてやる。
 「……っ、」
 片腕を伸ばして抱きついてきた太夫を抱き締め、そうっとその髪に口付けた。
 そして、セトが泣き疲れて眠ってしまうまで、手を繋ぎ、抱き合ったままでいた。
 
 
 
 * 四拾九 *
 
 吉原:『朱華楼』ゾロの部屋
 
 楼主であるシャンクスにサンジの訃報を聞いたゾロは、発散しようの無い怒りと苛立ちを扱いかねたまま部屋に居た。
 いますぐ飛び出していって、サンジを殺した山犬の群れを血祭りに上げに行きたくても。サンジの郷まで辿り着くどころか、江戸市内を抜ける関所を通ることも今はできない。
 苛々と外を行き交う雑踏に耳を済ませても、夕刻の吉原はまだ目覚めたばかりのような穏やかさを保ったままだった。
 きつく目を閉じて、拳を握り締める――――こんなに腹が立ったことは、生まれて今まで一度も無かった。
 
 す、と扉に近付く気配に面を上げると、すぃ、とコーザが顔を覗かせた。
 カエレ、と目線だけで告げても、入るぜ、と目で告げながら静かに部屋に入ってきて。す、と妓楼との間を隔てる扉を閉めた。
 「酷ェ話だな、」
 シャンクスは先に雪花に伝えたと言っていた――――昨日から登楼していたコーザは、一緒に訃報を聴いたのだろう。
 酷い、どころの話しではないが、それ以上に言い様が無いことに、ゾロは力いっぱい床を掌で叩いてから、手の中に顔を埋めた。
 「なんで、あいつが…」
 
 す、と目の前に差し出されたものを見遣り。それがサンジの髪留めだと気付いて、は、と低く笑った。
 太夫に持っていけ、と言われたのだろう。それを受け取り、一度握り緊め。それから、指先でその形をなぞった。不意に笑っているサンジの顔が浮かんだ。
 「こんなことならさっさと、ガキだろうとなんだろうと身請けでもしとくんだったぜ」
 ぼそ、と呟いたゾロの声に、コーザが持参してきた酒をゾロの湯呑みに注いだ。
 「おまえ…、」
 言葉を切ったコーザを、ゾロが見遣る。
 す、と湯呑みが渡され、それを受け取り、手の中で温める。
 
 「そんなに気が強いなら、おまえしか贔屓がいなくなると前にサンジに言ったことがあってな、」
 穏やかに低い声で喋り出したコーザを見遣る。
 「そうしたならおれになんて言ったと思う?」
 くう、とコーザが片頬で笑みを刻んだ。
 「おれのしったことじゃないときた、おまえ…好かれてたな」
 
 コーザの言葉に目を見開き。それからゾロが、はは、と低く笑った。
 「あいつ、行く前にこっそりオレの頬に口付けていきやがったんだぜ……ガキのくせに」
 は、とコーザが低く笑った。ゾロも小さく笑って言葉を次ぐ。
 「それで、オレに雪花と雛菊のことを頼むって……帰るまで代わりに守っててくれって」
 約束だ、と指切りして晴れ晴れと笑ったサンジの顔を思い出して、目頭が熱くなる。
 髪留めを握った手に、顔をまた埋めた。
 
 「なァ、」
 声を掛けられて、見上げる。潤んだ眼でコーザがゾロを見詰めてきていた。
 「浮き世じゃねえ、此処は苦界だ、遊び惚けているおれが言うのもカタハラ痛ェがな。好いた相手がいれば尚のこと…あれだけの器量だ、贔屓がつかねぇはずもねぇよ」
 酒を呷るゾロを見据えて、コーザが言葉を続けた。
 「好いた相手にだけ口付けられたなら、それほどひでぇ生涯とも限らねえよ、ただ、」
 空いた湯呑みに酒を注ぎ足す。
 「短すぎらァな」
 
 深い溜め息を吐いてから酒を呷ったゾロを、真剣な眼差しのコーザが見遣る。
 「雪花はおれが引き受ける、雛菊も遠からず廓を出るだろう。おまえはどうする、ゾロ」
 思い悩んでいたことを訊かれ、ゾロが低く唸った。
 「…喪が明けるまでは此処にいる。だがそれ以上は……」
 深い溜め息を吐いてから、赤い目で見上げてきたゾロをじっと見据える。ゾロが小さく自嘲するように笑った。
 「なァ、オレはさ。あいつが新造になったら祝ってやろうと思ってたんだぜ。いまのオレみたいな甲斐性無しじゃあここの花魁なんざ上げらりゃしねェ、身請けなんざ口にするだけでも馬鹿馬鹿しい。きっとサンジはどっかの大旦那に見初められるような太夫になる、けどそれまでは時間がある、それなら覚悟決めてやろうって。あいつが新造として頑張っている間に、あいつに内緒でオレも頑張って一旗上げようってさ―――その間、あいつに忘れられちまわれねェように、最初に祝ってやるのはオレで在りてぇって思って、有り金叩いてこんなもん買っちまって」
 
 投げ出してあった小さな桐の箱に納められた、柘植で出来た彫り物の施された櫛を出してコーザに押し遣った。
 「……馬鹿だよな、オレも。覚悟決めんのが遅すぎんだよ……っ」
 
 「聞いたらあの跳ねッ返りも喜ぶな、」
 静かに櫛に目を落とし、コーザがそっと箱を押し戻した。
 「おまえが持っていてやれよ」
 そしてじっとゾロの目を見上げて言う。
 「遅すぎゃしねェよ、いまから波がくるぜ。幕府だ藩だ、言ってられなくなるかもしれねえ」
 そっと目線を和らげて続ける。
 「出ちまえよ、サンジも楼主も止め立てしねえさ」
 
 押し戻された箱の中をちらりと見遣り。ふ、とゾロが笑った。
 「オレが持っていてもしょうがねェよ……楼主に頼んで墓にでも届けて貰うさ」
 さら、と櫛の飾りを指先で撫で。そしてゾロが静かに呟いた。
 「……オマエの生き様はいいな」
 視線を落として静かに笑ったゾロの言葉の端から、最早ゾロが生き様では無く死に様を求め始めたことを感じ取っても。コーザは、あぁ、と小さく頷くだけに留め。
 「喪が明けたらここを出る。オレに出来ることがあれば言ってくれ。なんだってやってやる」
 そう言って、コーザを強い眼差しで見上げたゾロに、にぃっと笑ってみせた。
 「その頃にはおれも雪花を連れ出すさ」
 ゾロが柔らかく視線を和らげた。
 「そうか―――――それがいい。手立てがあるならそうしてやれ」
 
 そうして二人でぽつりぽつりとサンジのことを語り合いながら酒を酌み交わし。
 ふと思い出したように、
 「オレより太夫のほうが辛いだろうよ。サンジにゃ実の姉さんみてェなもんだった。……すんげェあいつのこと可愛がってたんだろ?側に戻ってやれよ」
 とゾロが言い出すのに、ふっとコーザが目線を和らげた。そして、
 「あの人はあの部屋から出て思い出から逃げ出すこともできねぇんだからよ。……形見分けしてくれてありがとよ、って伝えといてくれ」
 そう続けて目線を伏せて静かに笑ったゾロに、に、と口端を引き上げてみせる。
 「おれが戻れば起きちまうよ、太夫はそういう性分だ、」
 そう返し、ハ、と小さく笑ったゾロに微笑みを向ける。
 「それに、おまえと酒を飲むのも久しぶりだ、いさせろよ。なにを見ても忘れてやるしな」
 ゾロが酒に酔う性質ではないのを知ってそういうことを言ってくるコーザに。ゾロはついっと額を指で押し返して笑った。
 「バァカ」
 
 
 
 
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