* 伍拾 *

吉原:『朱華楼』雪花太夫の本部屋

「サンジのことは残念だったな」
雪花が点てた茶を飲みながら静かに言ったベックマンに、太夫はそっと目を閉じた。
「どうしてサンジのような良い子があのような目に遭ぅてしまうのか……あちきには訳がわかりんせん」
溜め息を吐くように呟いた雪花に目を細め、ベックマンが頷いた。
「太夫の生国ではこのようなことはなかったか?」
「時々はありぃしたように思いぃすけんど……」
言葉を切った太夫に、静かにベックマンが目を伏せる。
僅かな沈黙を挟んで、雪花が視線を静かに上げた。
「旦那さまにはお子さんは…?」
ふ、とベックマンが静かに微笑んだ。
「若い頃に添った妻が、一度は身篭ったのだがな。お産で二人とも亡くしてしまった」
「……そうでありぃしたか。立ち入ったことを聞いてしまぃんした、どうぞお許しを」
「もう15年は昔のことだ。生来身体の弱かった妻には無理をさせてしまった……だから太夫がそのように細くなってしまっては、少々心配になる。コーザ殿もそう思われているのではないか?」
ベックマンにそう告げられて、ふわ、と雪花が微笑んだ。

サンジの訃報を聞いたその日、夜中にゾロの部屋から戻ってきたコーザはなにやら思案げにしていて。雪花を抱き締めて過ごした後、見送りも断って、朝に帰っていった。
『泣くな、とは言わないが。あまり細くなってくれるなよ……?』
帰る間際、ふわりと頬を包んだコーザの掌の温かさを思い出す。
『十日のうちにまた来る、』
そう雪花に言ってから、ナミに視線を合わせ。
『太夫をよろしくな』
そう微笑んだコーザの優しさは、一週間が経った今も雪花の胸に残る。

「あまり細くはなるなと仰いんした」
そう静かに告げた雪花の風情が切なそうなのに、ベックマンは小さく口端を引き上げた。
「コーザ殿はよくしてくれているようだな」
「あい。もう何度も通っていただいておりぃす」
「もし、身請けされるようなことがあれば……どうする?」
「……あちきはこの国に流れ着いて直ぐにこちらに来ぃした。外で生きる術は何一つ知りぃせん。それにこちらの国では皆が黒髪黒目だとご内所さまに伺いぃした。あちきは英吉利人でしかも男でありぃす。コーザさまは良い家柄のお方、お父上がお許しにはなりぃせんし……ご迷惑になりとうありぃせん」
声を落とし、きゅ、と着物の裾を握り緊めた太夫に、ベックマンが静かに頷いた。
「聡明な太夫のことだ、そう言われると思っていたがな……オレの前で繕うことはない。本音を言ってみなさい」
「……言ってどうなりぃすかえ…?」
「さあ」

ベックマンの言葉に視線を落とし。それから静かに目を合わせて言った。
「一生を添えるものなら添い遂げてみとうござんす。身も心も捧げきってしまっても、まだ足りないのでありんす。あちきに差し出せるものがあるならば、何を差し出しても構いんせん……あの方のお側に居たい。それがほんの僅かな時間でも。あちきはあの方とお会いして、生きる意味を知りぃした。あの方無くば、生きる意味がござんせん」
激情を押し込めたかのような言葉に、ベックマンは小さく微笑んだ。
「……斯様に情の濃い、激しい方であったのだな、セト殿は」
「………旦那さま」
本名で呼ばれ、目を見開いた雪花の手の上をぽんと叩き。さて、とベックマンは腰を上げた。
「セト殿の心の在り様を聞いてこちらも覚悟を決めた。この国はこの先混乱の時代を駆け抜けることになろう――――このまま安穏とはしておれぬことは誰の目にも明らかだ。この国も、他国もな。睦月には亜米利加に向かっていた移民船に乗り込んでいた清の国人が英吉利船を乗っ取って琉球に流れ着いた。清は大きな国ではあるがゆえに、攻略しようとする英吉利船、亜米利加船の行き来がますます激しくなるだろう。露西亜のこともあるし、この国も巻き込まれることは必須―――いずれ太夫のような方が自由にこの国を訪れる日も来よう。それが何時かは断言出来ぬがな。だが心構えはしておいて欲しい――――命を懸ける、な」

長居できなくてすまない、と言い残し。さっさとベックマンは部屋を後にする。
そろ、と指先で胸元の金鎖を撫で。独り残された雪花が小さく呟いた。
「……あちきは、でも。コーザさまをあちきの所為で失くすくらいなら、あちきが死にとうありぃすえ……独り残されるのは、もう嫌だもの…」



 * 伍拾壱 *

吉原:『朱華楼』楼主の部屋

毎度ご贔屓に預かりまして、と笑ったシャンクスが、部屋を訪れたコーザを迎え入れた。
時刻は昼前、位の高い花魁たちから順番に髪結いに来てもらっている時間帯である。
先日から登楼しているコーザは、雪花太夫の髪結いと風呂が済む時間を当てて顔を出したのだろう――――じっと真っ直ぐに見据えてくる若者の決意を秘めた眼差しに、とうとう来たか、とシャンクスは思った。

促された席に座ったコーザが、茶を出した禿が消えていったのを確かめてから、す、と視線を合わせてきた。
「この時世に“いまかぐや”を連れ出す無謀は承知の上で、あなたに相談がある」
静かに、けれど揺るぎの無い声で告げられ、シャンクスは僅かに目を細めた。
「また太夫を新しい籠に閉じ込めてしまうことと変わらなくても、おれがあの者の側にありたいんだ」
強い言葉で言い切られ、シャンクスは軽く片眉を引き上げた。
「――――アレを身請けしたい、ってことか」
「この国の在りようも、自分のイノチも定かじゃねえのに、むしろだからこそ隣にありたいと願っちまう、おれもかなりヤキがまわっちまったよ」

「オマエのオヤジさんはなんて仰っているんだ?」
シャンクスの問いに、「あぁ、」とコーザが苦笑した。
「成敗されかけたヨ」
あっさりと告げられたことが冗談ではないだろうことに、シャンクスも苦笑を刻んだ。
「薄々察してはいらしたらしいが、まさか妻に迎えるつもりとは予想外だったらしい、」
「武家の嫁に雪花を、ねえ?そりゃあなあ……後添え、妾、はよく聴く話だが、お武家サマの懐具合が苦しくなってきた頃からはそれすらもあまり聞かなくなった。ましてや正室かヨ、オマエさんも思い切った覚悟を決めたねェ」
ただ雪花には厳しい嫁ぎ先ではある、と言ったシャンクスに、コーザが頷いた。コーザが幼い頃に他界した母――――商人の娘が老中の嫁になるだけでもかなりの苦労があったのだ、花魁である雪花がそれ以上の苦労を背負うことになるだろうことは、最初から解っていることだった。けれど、それでも、とコーザは思う。
「ただ、一旦おれの我を通させてもらうんだ、太夫には何ひとつ苦労なんざさせなくない、」

「何の苦労も、なんて夢はさっさと捨てな。そりゃどの道無理ってなモンだ。何をどうしても誰かには苦労をかけなきゃ生きてなんざいられねェ。できるだけ取り除いてやりたいって気持ちは酌んでやるがな」
シャンクスは軽く溜め息を吐く。
「……あれは太夫だからな、知識教養はあるが…あの目をどう隠す?お父上は老中だ、オマエさんのところは大所帯だろう?それに台所も繕い物もなにひとつ出来ぬ嫁だ、お父上にしてみれば複雑だろうな」

シャンクスの言葉にコーザが頷いた。
「いっそ家を捨てるかとも思ったが、いまから時流が動くってときにそうもいかない、」
片頬で笑って、おやまあ、といった顔を作ったシャンクスを見遣る。
「家のことが出来ぬのは、雪花を一度…公家の姫とでもするかな」
コーザの発言に、小さくシャンクスが笑った。
「そういえばオマエさんは西園寺の方とも仲が良かったっけナ?それとも三鷹屋のオオダンナの知り合いか?公家さんも色々あるからなァ、支度金さえ用意してやれば仕込んではくれるとは思うが……」
シャンクスの言葉に小さく頷き、コーザが茶を啜ってから言った。
「ただ、身分だサムライだ、て時流はそう長くないだろうよ、太夫には何年か窮屈な思いをさせるかもしれないが、」

ベックマンに告げられていた以上のことを聞いて、シャンクスは小さく笑った。
「そうは言っても五年十年で変われることにも限界ってモンがあるだろう。雪花にとってはオマエさんがいればココよりは何所だってマシだろうとは思うが――――そういや、三鷹屋のオオダンナはなんだって?」
シャンクスに言葉にコーザが微笑を浮かべた。
「祖父殿には早飛脚を出したが、まだ返事は来てないな」
はァん、とシャンクスが目を細める。
「鷹のジーサンは喜びそうだがな、……ひ孫はアレでは無理なのがな、」
からかうように眉を跳ね上げる。ハハ、と明るい顔でコーザが笑った。
「そりゃたしかに無理言われそうだ!」

言葉を切って茶を啜り。それからまたシャンクスがコーザを見遣った。
「雪花は聡明なひとだからな、身分のことでオマエさんに迷惑が及ぶことを考えて、そう簡単には頷かないかもしれんぞ?異人の男を嫁として匿ったと周りに知れれば、お家断絶になるやもしれんしな―――――アレがただでは済まないのは元より」
す、と表情を引き締めたコーザに、目を細める。
「ま、オマエさんにその覚悟があるってぇんならこちらも覚悟を決めて手放してやるよ」

にぃ、と笑ったシャンクスに、コーザが片眉を跳ね上げた。
「あなたが手放してくださる、ということは」
言葉を切り、表情を冴えさせて、コーザがシャンクスを見遣る。
「万が一のことになればこちらにも害が及ぶことは必定、それを見越して大事な預かり子をおれにくれるというならば、」
に、と笑ってコーザが続ける。
「おれの勝算は八分を越えてるな」
そして、ひょい、と片眉を引き上げた。
「ところで楼主、“ベックの旦那”にはあなたから話が行くのか?」

一度お会いしておきたいが、と言ったコーザにシャンクスが小さく笑った。
「“ベックの旦那”にはオレから言っておくサ。忙しいらしくてつい三日ほど前になにやら太夫と話し込んでいたが、それ以来とんとお見限りだよ」
そして、す、と声を落としてコーザに告げる。
「何かあれば晒し者になる前に、ベックの旦那がオレもここも綺麗に消してくれているだろうよ。火事は周りを巻き込みかねないが、いい手段だ」
うっそりと笑うシャンクスに、コーザは僅かに目を細めた。ぼそ、とシャンクスが囁く。
「オレが旦那に関わってるのは一つきりじゃないからなァ」
「ふぅん?」
コーザが僅かに面白そうに目を輝かせた。
「吉原炎上、か?穏やかじゃねぇなあ」
飄々としたトーンに戻り、シャンクスが告げる。
「だァからそこんとこはオマエさんは気にしなさんな」
からりと笑って、ぽん、とコーザの肩を叩く。
「青二才に心配されなきゃならんほど、楽な道を歩んで来てはいねぇサ」

「まァ、面倒ごとはおれも起こさねェよ……とはちっと言えないか」
そう言って笑ったコーザが、すぅっと立ち上がった。
「かける面倒はじゃあ遠慮なくかけちまおう、なにしろこちとらまだ若造でネ」
見送るために立ち上がり。面倒を掛ける気はさらさら無いクセにそう言い切るコーザの首にがしっと腕を回してシャンクスが笑った。
「おう、その心意気でいきな、若サマ。ウチの“いまかぐや”を貰おうってンだ、それくらいの気概がなくてどうするヨ」
そして、ハハ、と笑ったコーザの耳元にこっそりと付け足した。
「ウチの元用心棒の面倒見もよろしくナ、若サマ。好き勝手に殺気巻き散らかして、余計なモン背負わないよう気を付けてやっててくれ」




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