* 伍拾弐 *

江戸市内:ベックマン邸

す、と影を落とした密偵の姿に、ベックマンは書き物をしていた手を止めて、ちらりと視線をそちらに遣った。から、と障子が開けられて、乱波装束に身を包んだ女が頭を下げた。
「三鷹屋次郎久右衛門さまが船により江戸に向かいましてございます」
女の声にベックマンはすぅ、と目を細めた。
「何時着く?」
「何事もなければ明後日には」
「―――――商用か?」
「兼ねておりますようですが、届いた文に随分と急かされていた模様でございました」
「……孫が動いたか」
ベックマンの言葉に女は低く応えた。
「白鷲が申しますには、随分と派手な喧嘩を遠衛門吉親さまと致していたと」
「雪花、だろう?」
「はい」

低く嘆息して、ベックマンが話題を変えた。
「長崎の方はどうだ?」
「まだ大陸の方に行ったきりだと」
「そうか…連絡が届き次第、オマエが知らせろ、マキノ」
「御意」

ふ、とマキノが視線を上に跳ね上げた。同時にベックマンも視線を遣る。
すとん、と男が庭に降り立った。
「鷲」
マキノが呟く。それを聞き取り、ベックマンはマキノに、行って三鷹屋を守れ、と短く告げた。
一礼したくの一が、軽やかに塀を越えていたところで、ベックマンは男に視線を落とした。
低すぎない声が告げる。
「反開国派に動きがございました」
「黒犬はまだ着いているのか?」
「はい」
「動きとは」
「勝海舟及びその弟子を、これ以上力を付ける前に討ち取る計画を立ててございました」
「――――決行は?」
「機会があり次第、と」

低く齎された応えに、ベックマンは唸った。
「……三鷹屋が巻き込まれるかもしれぬな」
「こちらで討ち取りましょうか?」
「いや―――それには及ばぬ。死んで改革の促進剤となるか、生きて旗印となるか……開国派は最早独りではあるまい」
「は」

頭を垂れた鷲に、事態を見守っておれ、と低く告げ。音も無く去っていく鷲の気配を感じ取る。
す、とまた新たな気配が現われたのに軽く目を細めれば、白鷲がすとっと庭に降り立った。

「今しがた、鷲と擦れ違いました――――狙われてございますか?」
頭を垂れながら訊いた白鷲に、ベックマンは頷いた。
「オマエは助太刀に行きたかろう」
「友なれば」
「……報告を」
「は」

コーザが老中の一人と連絡を取っており、明日、城から帰る途中に示し合わせて屋敷に伺う手筈になったことを聞いてベックマンが唸った。
「……好機なのだろうな」
「明日、でございますか?」
「そうだ。死なれては困るか」
訊いたベックマンに、白鷲が小さく頷いた。
「ならば白鷲。即死したならば捨て置け。生き残る確立があれば手助けしろ。ただし助太刀はするな、解ったな?」
「御意――――太夫が泣かれますな」
「覚悟は決めた筈だ。この先を考えるならば、ここで一つ二人の運の強さを確かめておこう―――――それだけの強運がその先には必要だ」

行け、と告げられ、視界から消えていった白鷲の気配も消えていくのを感じ取って、ベックマンが小さく溜め息を吐いた。
ぎり、と口端を噛み締め、けれど直ぐにそれを弱める。
女中が湯飲みを持って現われたのに、ゆっくりと振り返った。
「なにやら話し声が致したように思いましたけれども、お呼びでございましたでしょうか?」
「いつもの独り言だ。惑わせたようで済まなかった」
「それならよろしゅうございます。お茶をお持ち致しました」
「頂こうか」

す、と湯飲みを置いて女中が下がっていく気配に、軽く溜め息を吐き。熱い湯飲みで手を温めながら、ベックマンがぼそりと呟いた。
「太夫が泣く、か」





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