* 伍拾参 *
江戸市内
月明かりに色を濃くした闇に潜んでいた白鷲は、大老の屋敷を後にした若者の姿をじっと見守っていた。
前回のように警告しに行ってやりたかったけれども、門番などの目が届く範囲だったので、身を潜めている他に出来ることは無かった。
す、と気配を感じ、そっと見遣れば。黒犬が静かに路地に降り立った。ハンドサインが寄越される――――“敵襲間近”。
“何名だ”と訊けば“20”と返され、ぐう、と眉根を寄せる。途端、人の密度が濃くなった気配に視線を戻せば、門番たちからの死角に入った角でコーザが取り囲まれているのが見えた―――――広い道になっている場所だ。
舌打ちして塀に登り、移動を開始する。すぐ背後に黒犬が続いたのを感じ取った。
「勝海舟が師弟、コーザ殿とお見受けする。貴殿、幕府に仇為すものとしてお命頂戴する」
リーダー格の男の、朗々とした声が静かに響き。すら、すら、と鉄が鞘を滑る音が響いて、取り囲んだ者たちが次々と抜刀したのが解った。
塀にへばり付くようにしながら背後を振り返らずに、白鷲が黒犬に響かない小声で訊く。
「あの者たち、手足れか?」
「そこそこはな」
キィン、と金属が打ち合う音がして、小さく火花が散ったのが見えた。最初の一撃をかわされたことに微かに殺気立った一陣が、短く声を発しながら次々と打ち込んでいく。
短い悲鳴が上がり、血潮が月夜に煌くのが見えた。一人、また一人と地面に倒れ、手足を痙攣させるのが見える。
足場を確保するために少しずつコーザが動き。それに合わせて取り囲んでいる集団がじりじりと間合いを計りつつ動くのが見えた。
すぅ、と月が雲に隠れ。その間に二つ押し殺した悲鳴が聞こえ、ドサドサっと身体が地面に倒れる音が響いた。
ゆっくりと雲が晴れていく間にも、また同じように悲鳴が上がり。残り五人、とリカルドがカウントする。
じりじり、と草履の下で砂が鳴く音が響き。気合が発せられ、砂埃が月明かりに舞い、次いで血飛沫が散った。気管から空気が漏れる音が小さな笛のように聞こえた。
キン、キィン、とまた刃物がかち合う音がし。あっという間に打ち込んでいった三人が倒された。
最後の一人となり。二人がじりじりと間合いを計りながら打ち込む隙を窺っている。
ふ、と短く息が押し殺される音が響き。肉が切られる音が響いて、どさ、と人影が倒れ込んだ。
周囲を一度見回してから刀を振って血脂を飛ばしたコーザが、刀を鞘に収めた。
すい、と夜空を見上げ、ふと思い出したように呟いた声が聞こえる。
「……明日には共に月見だな、」
その和らいだ声に、白鷲はコーザが雪花のことを思い出したのだろうと知る――――月夜に見初めた日のことを。翌日に登楼する約束をしていたことを。
気を取り直し、コーザがしゃがみ込んで、自分を襲った人間たちの顔と懐を探り始める。
その姿を見ながら、終わったか、と呟いた黒犬の声に、白鷲が小さく首を振った。
地面に横たわっていた男が静かに立ち上がり、背後から刀を振り下ろす。
気配に振り向いたコーザが、身体を斜めに動かしながら咄嗟に抜いた鞘で太刀を薙いだ。切っ先が顔を掠め、低い唸り声が響く。
横に払われた勢いを返して、立ち上がりかけていたコーザの胴体を刀が下から斜めに切り上げていく。血飛沫が飛んだのが月明かりに見えた。
「が、あ…っ、」
低く唸る様なコーザの声が響き。倒れ込むのを踏ん張って、抜きかけていた刀で斬り付けていったのが見えた。短い断末魔の悲鳴が響き、人影が地面に背後から倒れる。
小さく、クソ、と口中で呟いたコーザが何歩か進み。それから、ぐら、とコーザの身体が揺れ、ゆっくりと倒れていく。
頭上に煌く月を見上げながら、コーザは昔千葉道場に通っていた頃、ゾロに言われた一言を思い出していた。
『――――オマエはツメが甘い』
「……まったくだぜ、ちくしょう」
記憶の中で仏頂面を浮かべていたゾロに返す言葉は、掠れてどこか弱弱しかった。
「……任せておいて正解だった、てな」
サンジのために服していた喪が明けた直ぐ後に、コーザはゾロを勝海舟の自宅に連れていっていた。一度コーザが襲われたこともあって、護衛代わりに、と半ば押し付けるようにしてきたのだ。
勝海舟を見て、ゾロが口端を引き上げて笑ったことを思い出した―――――『あぁ、解るぜ。アンタ、血を呼びそうだ』と言ったことも。
目の端に入り込む顔を見て、最初に見合った時の言葉を思い出した――――“幕府に仇為す者”。
「……いまさら、内で殺しあってどうなる、」
馬鹿ども、おれ一人相手に何人がかりで来るンだよ、と呟き。今頃勝先生も襲われている頃だろうか、と思い至る――――何人で襲い掛かろうと、ゾロが側に居る限り、先生が死ぬことはない。ゾロが死なせない――――例え己が死んだとしても。
よかった、と呟きを零そうとして、小さく咳をした。血の味がすることに、小さく眉根を寄せる。
発作のような咳が治まり、頭上の淡い金を見上げる。
泣いている雪花の顔を思い出し、顔を歪めた。
「……悪ィ、」
約束を破ったこと――――明日に会いにはいけそうにない。それどころか……。
「……ハ、」
助かりはしないだろう、と思う。指先が冷えてきて感覚が無くなりつつある。
頭がぼうっとして、感じ取っていた微かな風や咽るような血の匂いも解らなくなってきた。
淡い金色の月に、柔らかに白い膜がかかっていく。
遠くで誰かに呼ばれたような気がしたけれども、それが誰だかももう解らなかった。
ふわり、と。やけに優しく意識が月明かりに解けた。
倒れたまま動かなくなったコーザを見遣り、低く白鷲が唸った。
「黒犬、来い」
「許可されているのか?」
「今死んでいなければな」
左右を確かめ、白鷲が飛び出していき。それに黒犬が続く。
崩れ落ちていたコーザを覗き込み、まだ息をしていることを確認した。
「コーザ、リカルドだ。いま止血する」
間近で低くそう声にし。顔の傷は残りはするが致命傷ではないと見て、切られた着物の前を開く。
意識はもう無く。傷の深さを確認した後、白鷲が手荒く止血剤と化膿止めを塗り込んだ包帯を巻いていくのにも反応を示さなかった。
切られた顔の左半分にも同じように包帯を巻いていく。
「黒犬、お館様に報告を」
作業の手は止めずに、黒犬に告げる。包帯を巻くのを手伝っていた黒犬が、静かに頷いた。
「わかった。オマエは?」
「このまま通りがかりを装って屋敷まで担いでいく――――兄者に診せたほうが確実なのだが、ここからでは距離がありすぎる。知り合いに良い医者がいることを祈ろう。オレも後でお館様にご報告に行く」
「あぁ。気をつけてな」
白鷲が作業を終えたのをほぼ見届け。細長い身体が自分より体格のよい男を軽々と背負ったのに軽く目を細めてから走り出した。
白鷲は、落ちていた男の刀を拾い上げてから、小走りに走り出す。
周囲から聞こえていた小さな呻き声が、全部聴こえなくなった――――柔からな月明かりが、すべてを包み込むように煌いていた。」
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