* 伍拾四 *

吉原:『朱華楼』雪花太夫の本部屋

贈られた牡丹の花弁を指先でなぞり、雪花が溜め息を吐いた。
何度も読み返した手紙は丁寧に畳んで文箱に仕舞った――――今日来る、と書いてあるのはもう何度も確かめた。何か急用でもあったのだろうか、それで遅れているのだろうか、と思っても。それならば文の一つでもさらりと書いて送ってくるだろう性格なのを知っているだけに、胸騒ぎがした。

「なんぞありぃしたのかえ…?」
呟き。その言葉に触発されたかのように、ざわざわと胸で何かが騒いだ。碧も主人の不安を感じ取っているのか、どことなく落ち着きが無い。
サンジが死んだと聞かされた時から、精神が不安定になりやすくなっているのを雪花は自覚していた。便りが一日でもない日は、毎日文を送ると約束された訳でないにも関わらず、心配になった――――自分から文を送って安否を確かめることを自分に禁じていたから、便りが届くまでは酷く苦しかった。

前回コーザが登楼してから十日、漸くコーザに会える、とほっとしていた所だったので、尚更心配が募る。
座敷の支度を整えていた原亭屋も、なんの便りも受け取っていなかったらしい。使いを遣って朱華楼まで、直々に登楼してしまっていないか確認してくる始末だった。

玄関先まで様子を見に行っていたナミからそのことを聞かされ。雪花は顔を曇らせた。
けれど、もしかしたら夜遅く来ることになるのかもしれないと思いなおし、出来るだけ自分で不安を煽らないように努める。
そのまま時間はのろのろと過ぎ。誰からも何の知らせもないまま、引け四つ(深夜零時)を迎えた。こうなれば妓楼はその日の営業終了である。
雪花はナミに促されるままに床に入り。けれどもまんじりとも出来ずに朝を迎えた。


「え?あちきに会いに、ですかえ…?」
翌朝、髪結いも終わって風呂も済み、遅い朝餉の代わりに湯を飲んだところで、喜助のエースが顔を出した。ゾロがどうしても太夫に会いたいと行っている、と告げに来たのだ。
サンジのことがあっても顔を出すことのなかったゾロが今太夫に会いたいと言ってきていることに、雪花は胸騒ぎを覚えた。けれどそのまま頷き、了承したことを告げる。
少しも待たされることなく、背の高いがっしりとした体躯の男が入ってきた――――どことなく殺伐とした空気を背負った、コーザより若そうな男だった。
床に座ったままだった雪花の前に、するん、と腰を下ろす。

雪花の蒼氷色の双眸を見詰め。花魁を見る度に現実離れした人だという印象を受けた理由をゾロは今になって知った――――ここ“朱華楼”が異様にこの花魁に対しては過保護だった理由も。
昨夜は眠れなかったらしい、ほっそりとした太夫の美しい顔が朝を迎えたばかりだというのにもうやつれているのを見て、コーザの一人芝居でなかったことに今更ながら安堵した。
そして、伝えなければいけないことを考え、心が闇に覆われたような気分になる。

「ゾロさん、でありぃすえ…?」
頷いたゾロに、どうなされんした、と耳に柔らかい高すぎない声が聞いてくるのに、合わせていた視線を伏せた。
それから、覚悟を決めて視線を上げる。
「コーザが昨夜、襲われた」
薄い氷のような蒼い双眸が大きく見開かれる。一瞬で太夫の血の気が引いたのが解った。カタカタ、と小さく身体が震え出すのが見えた。

「一人でいるところを、囲まれたそうだ――――同じ時刻にオレは別のところで別の連中と遣り合っていた」
「……なぜ、」
震える声が囁くように言うのを聞き、ゾロは小さく首を左右に振った。
「詳しくは言えない。だがヤツが狙われたのは昨日が最初じゃあない」
「……そんなことは一度も、」
胸元を握り緊め、掠れた声が言うのにゾロは小さく笑った。
「惚れた相手にそんなことを抜かす男はいない――――解っていたら、あの男を断っていたか?」
そんなことは、と言って首を強く横に振った太夫が、ゾロの片手を両手で握り緊めた――――酷く冷たかった。

「ご容態はどうなのでありぃすか?ご無事であられぃすか?」
間近でじっと見詰めてくる顔が、こんな時でも美しいことに胸を痛めながら、ゾロが僅かに目を細めた。そして低く告げる。
「―――――厳しい」
ゾロには解らない言葉で何かを一言呟き。両手で胸元を握り緊め、天を仰ぐようにして一つ息を吸い込んだ太夫の身体が、次の瞬間傾いだ。
とっさに腕を伸ばして、畳に落ちる前に受け止める。慌ててエースが廊下から部屋に飛び込んできて、禿二人を呼んでいた。

失神した花魁の手当てを禿に任せ。エースに声を掛けようとして、背後に男が立っている気配に振り向いた――――楼主のシャンクスだった。
「ご内所、」
「―――――勝先生はご無事かい?」
訊かれた質問に僅かに目を瞠り、それからゾロは静かに頷いた。
「オレの方は僅か六人だった。先生は無事さ」
「そうか」

厳しい目をしたシャンクスを見上げ、ゾロが訊く。
「なあ、ご内所。相談があるのだが」
「ウン?」
「太夫を――――雪花を、廓の外に出してやることはできないだろうか?」
シャンクスが、静かに目を細めた。
「ウチのコはあんなだよ。出せと言ってそう簡単に出してやれる者じゃない」
「それでもコーザは妻にと望んだ。アンタにも話しが行ってるんだろう?」
「あぁ……十日程前のことだ」
頷いた男をゾロはじっと見上げ。それから覚悟を決めて、深々と頭を下げた。
「オレが頼んだところで何ができるわけじゃねェ、金を工面できるわけでもねェ。けど、アイツは今は峠に居る。死ぬも生きるもまだ確定した訳じゃあないが、死ぬなら死ぬで側に居させてやりてェ。どうかお願いだ、ご内所――――廓から出してはやってもらえないだろうか?」

顔をお上げ、と静かに告げられ、姿勢を正す。
「それはオマエ、サンジの死に際にオマエが間に合わなかったからってことかい?」
「……それも、ある。いや、きっとそれが大きいんだと思う。けど、アイツも……こんな時世だからこそ、太夫を身請けしたいと願ったんだと思う。だったら今、あいつの側に遣ってやりてェ」
「太夫のことがバレたら、オマエ。若サマもお父上もただじゃあ済まないんだよ?廓から出したところで、江戸の町なんざ歩ける訳もない。ましてやお武家サマの上屋敷になぞ、入れるわけが無かろう?」
シャンクスの言葉に、ゾロはすっと視線を細めた。
「オレが太夫を導く。コーザの元まで無事に連れて行く。もしコーザが身罷れば、責任持ってこちらに戻しにくる。オレの命を懸けて約束する――――それではまだ足りないか?」

強い視線で見つめてくるゾロを見遣り、シャンクスは小さく微笑んだ。
「―――――出すことは出してやれる。ただしあのコはオレが身柄を預かっているだけのコだ、今すぐには返事はできない。解るな?それでもいいのなら、あのコをここから出そう。近日中に江戸の何所で雪花を拾えばいいか決めた文を出す。オマエは今は勝先生のところで居候か?」
「ああ。昨日襲われたからってンで、先生は今日は自宅で待機だ。オレだけがコーザのところに寄って、容態を確かめてきた」
「その足でこちらに来たか――――野暮天の割に気が利くねェ」
「ご内所」
呆れた風に呟いたゾロの頬を撫でて、にっこりとシャンクスは笑った。

「雪花を出してやるからには、オマエ。アレを死なすんじゃないヨ。雪花も、若サマも、だ」
「解った」
頷いたゾロが立ち上がったのに、先に部屋を出ながらシャンクスが小さく溜め息を吐いた。
「まったく――――ままならない時代だねぇ」




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