* 伍拾七 *

江戸市内

ゆらゆらと籠に揺られて、まるで胎児にでも戻ったような気分を味わっていた雪花が次に気付いた時には、低い天井の静かな家に寝かされていた。
「……、」
眠れて居なかった夜が続いた為、強制的に深い眠りを取らされたことで、少しばかり思考がクリアになっていた。それでも、まだどこかぼんやりとした視界に、何度か目を瞬く。

「あねさま、お気付きになられぃしたかえ?」
懐かしい声がして、雪花は耳を疑った―――――サンジ?と掠れた声で思わず訊ねる。
「あい、あねさま。サンジでありんす――――ご心労かけましたこと、申し訳なく思っております」
す、と顔を覗き込んで来た人物は、よく陽に焼けていた――――そして、髪が高く束ねて結われていた。記憶にあるものより短い。
記憶にあるより僅かに低い声に、雪花がゆっくりと身体を起こした。
背中に手を当ててそれを手伝ったサンジを見遣り。
「――――――サンジ、お前、おとこのこだったの」
目を大きく見開いた太夫に、サンジが笑った。
「あい。あねさまと同じでありんす―――――長い間隠し事をしていたこと、まことに相済みません」

深々と頭を下げたサンジの頭をそっと撫でる。
「……髪を切っておしまいになりぃしたかえ」
「禿のサンジは死にました。オレは今のところは薬屋の熊さんの所に住み込みに来た小僧ってところです」
凛々しく面を上げたサンジに、ふわ、と雪花が微笑み。両腕を伸ばして、ぎゅっと抱き締めた。
「……お前が死んだと聞かされ、沢山泣きぃした。今は嘘であったことに感謝したい気持ちでいっぱいでありぃす」
ぎゅう、と細く痩せた太夫の背中を抱き締め、サンジも少しだけ泣いた。
「……廓を抜けることは大変です。あの場に居た総ての人間を騙す必要があってああいう風になりました。ご内所さまはご存知の筈ですが」
「まあ…!ご内所さまは、そんなことを一つも匂わせやしんせんでしたえ…!」

碧がお前を恋しがって泣いておりぃした、と告げられ、くすん、とサンジが泣き笑いを浮かべた。
「碧はまだ廓に居りますか。――――オレもあねさまにお会いしたかった……南に行っている間も、あねさまがどうされているか心配していました。ナミとアディは良くやっていますか?」
「お前のその言葉、なかなか慣れそうにはありぃせんなぁ……ナミもアディも、皆良ぅしてくれておりぃす」
ふわ、と微笑んだ雪花が、すう、と視線を落とした。
「……ゾロさんが、お心を痛めておいででしたえ…」
こくん、とサンジが頷く。
「殴られる覚悟でいますから。それより―――――コーザさまのことを伺いました」
「あい。……今もご容態にお変わりはなく…?」
「熊さんは町の薬屋ですから、武家屋敷の方には招かれないのです。ですが、容態に変化があったとは残念ながら聞いておりません」
そう、と視線を落とした雪花の、黒く染まった髪をサンジはそっと撫でた。

「お心を強く持ってください、あねさま。コーザさまが弱っていらっしゃる時にあねさままで弱くおなりになってはいけません」
「サンジ、」
声を揺らして雪花が呟く。
「あちきはあの人なしでは嫌なのでありんす。あの人がおいででなければ、あちきが生きるどんな意味がありんしょう?」
「コーザさまとて同じ気分でいらっしゃると思います。ですから、あねさまがそのようにお痩せになってしまっていては、心配なさりますよ?」
ね、とサンジが言って顔を覗き込むのに、雪花は小さく微笑んだ。
「サンジは強ぅござんすねえ…」
「あねさまほどではありません」
「そんなこと――――あちきはとても一人では生きては来れんせんでしたえ、お前や他の方々がいらっしゃったからこそ、あちきは今在るのでありぃす」

サンジはそうっと雪花の背中を撫で下ろし。また元のように寝ているように告げた。
「少し休んで体調を整えてください、あねさま。コーザさまのお側に参りますのであれば、体力を戻しておく必要があります」
「そうですね、サンジ――――では休ませて頂きぃす」
「はい。サンジはこの家におりますから、いつでも声をかけてください」
雪花に元のように布団をかけてやり、サンジはにっこりと笑った。
「今度はどこへも行きませんからね。安心しておやすみになられてください」
ふわ、と柔らかく雪花が微笑んだ。
「サンジ、ありがとうね」


目を閉じた雪花を一人部屋に残し。薬屋に頼まれていた雑務をこなしながら、サンジの頭は移ろう。
「胸を痛めていた……か」
サンジがとうとう禿から新造へと上がることが決まったことを、どこか嬉しそうにしてくれていた用心棒の顔を思い出す。ほんの時々、髪を撫でてくれたあの大きな掌のことも。
「そりゃ怒るよなぁ……出会った時からずっと騙してたんだしなぁ…」
しょんぼりとして、深い溜め息を吐く。
「オレのこと、好いていてくれたんだよなぁ……ゾロ」

最初から自分が“死ぬ”ことを知っていたから、これで最後だと思ってゾロにキスをした。
無骨で野暮天な彼を好いている気持ちは、すぐに消えるだろうと思っていた、自分が禿を止めたら。
でも。
「――――――男同士って、あんまりネックにはならないって知っちゃったし…」
雪花の側に居て助けて守ることがもう一度サンジの使命になって。
こういうことにコーザがなってしまっている今、コーザの親友であるゾロに会わずにいられるとは思っていない。避けては通れず、避けたくもなくて……。

「……あーあ、好きになったってショウガナイのに」
自分は忍びだから―――――自我を通すことより使命のほうが重要で。今は雪花の側に居るように命令されているけれども、いつ呼び戻されるかも解っていないわけで。
「っていうか、オトコのオレのことも、好きになってくれるとは限らないけどさー」
それどころか、罵られて殴られるかもしれなくて。
「……気が重い……」
その場にしゃがみ込んで、深い溜め息を吐いた。
膝小僧に当たった着物の袂に入っているものを、生地の上から押さえて。ぽつん、とサンジが呟いた。
「ごめんなぁ、ゾロ……」
自分のために随分と泣いてくれたという雪花に対してより、ぶっきらぼうな用心棒が胸を痛めていたという雪花の言葉に、今まで異常に罪悪感が湧き上がって……。
「あーあ……」
サンジはもう一度、深い深い溜め息を吐いた。




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