* 伍拾八 *
江戸市内
小さな民家の前で篭が止まり。三鷹屋次郎久右衛門は、ずい、とその中から姿を現した。
黒地に銀糸の折りが入った派手な着物に、シナの絹の羽織り、彼の織田信長もかくやといった具合に束ねられたクセの強いざんばら髪に整えられた髭。そしてその強く鋭い漆黒の双眸が何より目立つ初老の男性だ。
ぎろ、と睨みつけられるように見られ、篭屋はびしりと背筋を伸ばした。
「待っておれ」
低い声にぼそりと命令され、へい、と篭屋は頭を垂れた――――侍を乗せた時より緊張する、と内心でぼやく。
篭屋の憂鬱など気にすることなく、次郎久右衛門はざかざかと歩いて、迷うことなく真っ直ぐに民家に入っていった。がらりと玄関を開けて、邪魔をする、と勝手に上がっていく。
慌てて裏口から回ってきた小僧が引き止める間もなく、さらに進んで奥の部屋に向かった。
「邪魔をするぞ」
一言有無を言わさぬトーンで告げてから、からりと襖を開けた。
寝込んでいたと思われる人物が、不安そうに視線を投げかけてくるのに目を細めた。
「月読だな、アマテラスなどではないわ」
そうぼそりと呟き、どっかと床に座り込んだ。
ぱちぱち、と目を瞬いて見上げてくる太夫らしき人物を真っ直ぐに見遣って、はっきりとした口調で告げる。
「孫なら死んではおらぬぞ、それだけだが」
胸元に静かに布団を引き寄せ、そっと見返してくる儚げな風情の太夫をじーっと見詰める。
「あのうつけものめ、ヒトを呼びつけておいて騒ぎを起こし、立っても出迎えん」
泣き明かしたと一目で解る真っ赤な目をじっと見詰め、次郎久右衛門がくうっと眉を跳ね上げて言う。
「面妖なモノだな、獣の目に嵌るとそれほど美しいとは思わぬが」
そして、ぱち、とゆっくりと目を瞬いた太夫に訊く。
「あの毛だらけは達者か」
その言葉に合点がいったのだろう、けれど確かめるように静かな声が訊いてきた。
「――――“三鷹屋の大旦那さま”でありぃすかえ?」
次郎久右衛門はフン、と小さく鼻を鳴らして頷いた。
「他に誰がおると申す」
身体を起こしただけだった雪花は、目の前の人物がコーザの自慢の祖父と知り。布団の上で居住いを正し、丁寧に三つ指を突いてお辞儀をした。
「斯様な身形で申し訳ござんせん。いつぞやは碧を、猫をありがとうござんした。朱華楼の花魁、雪花でございます」
次郎久右衛門は、手で休んでいなさい、と促し、すい、と手を懐に差し込んだ。
雪花はゆっくりと面を上げ、静かに囁くように告げた。
「あちきがこのような具合でありぃすので碧は廓で留守番をしておりぃすけんど、元気でありぃす」
するりと懐から手を出した次郎久右衛門が、兎の毛で出来た毬を引き出して、ころんとそれを布団に転がした。
「無念」
次郎久右衛門の言葉に、雪花は驚いて目を見開いた。
それから、その言葉の意味することに思い至り、くう、と胸元の金鎖を握り締めた。
盛り上がった涙がぱたっと零れ落ちていく。
「――――斯様な場所でお会いするとは思ってはおりんせんしたえ、あちきがもう少し…」
もう少し気丈で在れたなら、と言葉で続けられなかった雪花がぱたぱたと涙を零していくのを見詰め、次郎久右衛門が低く告げる。
「泣くな、泣いたとてアレの天命が終わるならそこまで。どちらへ転ぶとも、もう郭へは戻ることは無いと覚悟するが良い、」
大きく目を瞠って見上げてきた雪花の蒼氷色を見詰め、うむ、と深く頷く。
「毛だらけは取り返してやる」
次郎久右衛門の言葉が本心から告げられた言葉だと知り、雪花が寂しげに微笑んだ。
「――――廓を出たらあちきはどうなりんしょう?」
その懸念は尤も、と次郎久右衛門が頷いた。
「アレの妻になるか、大阪に来られるか、清へ渡られるか、いかようにも開けるな」
「―――――つま、でありぃすか…?」
大きく目を見開いた雪花が、震える指先で口許を軽く覆った―――――ベックマンとシャンクスにその可能性を告げられていたとはいえ、コーザ自身にはまだ訊かれていなかったことを、最愛の祖父である次郎久右衛門にあっさりと告げられたことに驚く。
次郎久右衛門は真顔でそんな雪花を見遣り、真面目に応えた。
「妾よりは良かろう、アレが妻になるとも思えんが」
その言葉に、雪花が自嘲するように小さな笑みを口端しに刻んだ。
じっと見詰めてくる金色掛かった茶色の双眸が強い眼差しであるのに、溜め息を吐くように言った。
「誰もお教えはしんせんでしたえ…?あちきは花魁ではありぃすけんど…」
言葉を区切って短く息を吐き出し、それでもはっきりとした声で告げる。
「――――あちきは女ではありんせんえ…?」
にぃ、と次郎久右衛門が口端を引き上げて笑った。そして静かに、それでも力強い眼差しで自分を見詰めてくる雪花に、視線を返す。
「我は目が良すぎてな、過ぎたるは及ばざるが如し、というが盲ほどにはハナが効く」
言い切った次郎久右衛門に、雪花が小さく微笑む。
「―――――――そうでありぃすか」
「8割9部までは謀られるところであった」
そう褒め言葉を口にし、次郎久右衛門はまた真顔に戻る。
「婿殿に言う必要はなし」
自分の娘の夫を、実の孫の父親を。祖父と子で揃って騙し通そうと言う次郎久右衛門の言葉に、雪花は視線を胸元に落とした。
「……コーザさまのお立場は理解しておりぃす。どんなに大切なお方なのか」
そう告げて、小さく笑う。
「でも―――――あちきは一緒に在りとうござんす」
静かな口調で告げた雪花を見遣り、僅かに次郎久右衛門が目を細めた。
「生きておればな」
きつく目を瞑った雪花を見詰めて、次郎久右衛門が言った。
「見に行くか、ただ寝ておるだけでつまらぬぞ。お支度をされよ」
そして短く、不満げに鼻を鳴らす。
「ぐうもすうも言わぬ、ばか者が。つまらぬ」
何気ない一言に、コーザの容態を汲み取り、雪花が泣き出しそうに顔を歪めた。
「そんなにお悪ぅござんすかえ……」
けれど、次郎久右衛門は飄々と返した。
「左様、生きておるのが既に摩訶不思議」
そして、部屋の様子を廊下からそっと見守っていた小僧に、くい、と顔を向けて、
「そこのわっぱ。出て来い、支度を手伝え」
そう告げた。
* 伍拾九 *
三鷹屋の大旦那の変わらぬ傍若無人ぶりに苦笑しつつも、するりと襖を開けてサンジが部屋に入ってくる。
「支度と仰いますけれども大旦那さま、」
そう言ったサンジを見て、わはははは!と次郎久右衛門が笑い出した。
「おお。おまえはあけこまの生意気な禿だな、なんだおまえも謀ったか、あそこは狸御殿かよ」
狸御殿、という言葉に、サンジがにぃっと口端をつり上げて笑った。
「お久しゅうございます、大旦那様。お覚え置き下さってサンジは嬉しゅうございます」
そして、すい、と顔を戻して、真面目な口調で告げる。
「花魁をそのままお屋敷に送り込みますと、上屋敷が火の点いたような騒ぎになりますよ?」
「心配無用、死に掛けは離れの茶室に置いてあるわ」
そう言って、ぱちくり、と次郎久右衛門は目を一度だけ瞬いた。
「ああ、違ったあれは書院か?婿殿の屋敷は仕掛けもなくてつまらぬ、知らぬ」
大阪の実家はどんなからくり屋敷だよジジィ、と突っ込みたいのをガマンして、サンジは苦笑を刻んだ。
「では花魁をお上げなさいますか」
次郎久右衛門は、ふん、と小さく鼻を鳴らす。
「花魁、とはいえ道中はさせぬぞ」
そして、雪花のために用意してきた男物の着物の入った風呂敷を顎で示して、
「大阪のいまの流行模様だ」
と告げた。
「真の女人に着せるツモリで艶なオトコモノを選んだが。ナルホド……太夫が召しても良いものだな」
包みを解いて、その地味なようでいて派手な着物を見て、サンジが深い息を吐いた。
「―――――死に掛けの旦那様のお側に馳せ応じるのにソレでございますか」
転がした毛毬を拾い上げ、ぽん、と空中に上げながら、次郎久右衛門があっさりと言う。
「眼が覚めようさ」
返答に苦笑して、サンジが次郎久右衛門を見遣る。
「まあでも、流石は大旦那様、太夫にはよぉくお似合いになるかと存じます」
「あの死にかけの側におっても我は退屈であったな、」
そう言って目を細めた次郎久右衛門が、太夫に視線を戻した。
「太夫、アレがぐうもすうも言わなんだら、ハラを踏んでみられたら良い」
に、と笑って、「見ものである」と続けた男に、雪花がぴしりと固まった。
「そんなことはできんせん、大旦那さま…!」
あっはっは、と次郎久右衛門が笑って、またぽーんと手の中の毛玉を中に放り投げた。
「戯事ぞ、いま踏んだら臓物が出よるわ」
サンジが、めっ、と言わんばかりの顔で次郎久右衛門を見遣った。
「大旦那さま、太夫の純情でお遊びになられてはいけません」
そして、軽い溜め息を吐きながら言う。
「けれど、大旦那様が太夫をお連れになるのでしたら、確かに退屈からは解放されましょう」
すい、と次郎久右衛門がサンジを見遣った。
「おまえも来なさい」
サンジはアタリマエでしょ、という顔で大旦那を見上げた。
「行きますよ、もちろん。太夫を一人でどこぞへなんぞ行かせられません」
子供を叱り付けるような口調でサンジが続ける。
「いーですか、大旦那さま。太夫は一度も!!!自由に出歩いたことがないんですよ、この国で!」
わははははは!と次郎久右衛門が笑う。
「我もオナジゾ、わっぱ」
「大旦那様はお目付け役を跳ね除けてでもお遊びになられますでしょ」
取り付く島の無いサンジに、次郎久右衛門がにっこりと笑いかける。
「真の自由は未だこの国には無い、」
サンジがさすが三鷹屋の大旦那様はコーザさまのお祖父様だと思ったときに、
「外におったモノもつれて行くぞ、アレは孫の友と覚えておる」
と告げられ、どきりと心臓が止まるかと思った。
「門外におったぞ、しらなんだか、わっぱ」
じ、と視線を寄越され、サンジはぱちぱちと瞬いた。
「――――ほえ?」
「おや、狸の尾が見える」
そう言って次郎久右衛門は笑って、サンジに告げた。
「いくぞ、子狸」
子狸、と呼ばれたサンジは、気が漫ろになりつつも次郎久右衛門の問答無用な口調に、片眉をつり上げた。
「いくぞって、まだ着替えとかなにも」
そして颯爽と立ち上がった次郎久右衛門を見遣って、ほんの少しだけ慌てた。
「大旦那様、サンジが目下人生においての最大の分かれ目に到達していることをご存知ではありんせんか」
―――――うっかり口調が廓言葉に戻る程に。
次郎久右衛門はサンジの言葉に何を読み取ったのか、
「太夫に着くなら、わっぱも江戸にはおれんよ」
と返して。頼もう、と玄関先から響いてきた深い低い声に、ひょいと顔をそちらに向けていた。
「おお、客人だ、あの声は間違いない。我が行こう」
そして、玄関に向かって歩き出しながら、まだ茫然と見上げていたサンジと、不思議そうに目を瞬いていた雪花を見遣ってひとこと言った。
「早くせよ、置いていくぞ二人とも」
内心で芽生えた葛藤を一先ず置き、サンジが暫く「覗かないでくださいよー、大旦那さまー」と玄関に向かって怒鳴り。
くるりとまだ困惑しているような雪花に向き直って、にこりと笑った。
「というわけらしいです。あねさま、お支度願います」
次郎久右衛門が持ってきた着物を一先ず差し出してやれば、それを受け取った雪花が小さく困ったかのように笑った。
「……殿方のお召し物には始めて袖を通しんす」
雪花は喜助のエースの言葉を思い出して、それをサンジに言った。
「――――確かに“すんげぇ”お方ではありぃすねえ」
三鷹屋のオオダンナ、もしくは鷹のジジィに対する感想である。
けれど、そうは言っても雪花は次郎久右衛門に対して好意を持っていた。
エキセントリックではあるものの、物の道理が解らぬヒトでは決してなかったし。雪花の秘密を知っても、ある意味ではコーザ以上にあっさりと自分のヒトとナリを受け入れてくれたからだ。
やさしいヒトであることも、伝わってきて―――――雪花は次郎久右衛門が持ってきた地味な色合いだけれども派手な仕立ての着物を抱き締めながら、今更ながらに少しばかり涙ぐんだのだった。
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