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 * 六拾壱 *
 江戸市内:遠衛門吉親の『上屋敷』
 
 す、と篭から降り立った雪花を見遣り。コーザの屋敷の門番たちは、くっと息を呑んでいた。
 それも当然だろう、とゾロは思う。
 長い髪を後ろで緩く縛り。立つ姿は女性のようなすらりとした姿。眉目秀麗でほっそりとしたその人は、明らかに侍ではなく、かといって商人らしくもなかった。なにがどうあっても町民や農民では在り得ず。そもそも人としては浮世離れしていた―――――ゾロの目から見ても。
 言ってみれば月の精のようだ、とゾロは雪花の姿を見ながら思った。青い目は氷のようで、それを鑑みれば雪の精でもいいかもしれない、と。
 
 それでも。
 「――――男だって思うと男に見える」
 ところがなんだか不思議だった。
 純粋に女性だと思っていたときには、きちんと花魁にしか見えなかったのに、だ。
 ぼそりと呟いたその一言を聞き止めた次郎久右衛門が、
 「鍛錬が足りんぞ、小倅」
 そう通り過ぎざまに威張って言って。
 「―――――ジジィが異常なんだヨ」
 そう目を吊り上げて言い返してはみたものの、茶室に迎え入れられている雪花が心配そうなのに、それ以上の言葉を飲み込んだ。
 
 「おまえも来い、死ぬなら死ぬで見ておいてやれ」
 そう次郎久右衛門に告げられ、ゾロは肩から力を抜く。
 「さてアレは、粛々と河を渡るかの」
 そう呟いた次郎久右衛門に、ゾロはきゅっと表情を引き締めた。
 「――――や、死なねェだろ」
 「おまえは良い友だ、」
 そう僅かに口端を引き上げた次郎久右衛門に、ゾロは顎をしゃくって雪花が入っていった後を示した。
 「命がけで来たヤツがいるんだしな」
 うむ、と次郎久右衛門が頷いた。
 「我の血も流れていることだしな」
 次郎久右衛門の言葉に、くぅ、とゾロは口端を引き上げた。
 「あー、そっちのが加護がすげェか」
 
 す、と次郎久右衛門が茶室に入っていき。ゾロは顔馴染みのコーザの屋敷の人にぺこりと頭を下げた。これから雪花が味わうことになる気持ちを慮り、ちくりと胸が痛んだ。
 そして、他人の気持ちを思い遣ることができる自分にいつの間にか戻っていたことに苦笑を刻んだ。
 そんなゾロを見遣って、雪花について茶室に招かれていたサンジが、そっと目を伏せた。
 
 
 布団に寝かされた包帯だらけのコーザを見詰め、雪花は無意識のうちに歩み寄り。血色が悪く、ぴくりともしない人の横にへたんと座り込んだ。
 震える手をそっと伸ばし、顔半分を覆っている包帯を避けて、そっと艶を失った頬に触れた。血の気は引いているけれども、熱があるのかその肌は熱かった。
 「………ひどい」
 閉じられた瞼はぴくりとも動かず。
 渇いた唇が痛々しくて、雪花はそうっとその上を指先で撫でた。
 僅かに掛かる息だけが、辛うじてコーザが生きていることを証明していた。
 けれどもこれでは……。
 
 目の前がぼやけたことに、雪花が瞬いた。
 ぱつん、と溢れた涙が落ちていく。
 「……コーザさま、」
 そう呟いた声は擦れきっていて。喉が締め付けられて、酷く痛んだ。
 医者がそっと席を外していったことには気付かずに、きれいに整えられたコーザの髪をそうっと指先で辿った。
 「……置いてお行きになりぃすかえ」
 そう静かに呟いて、小さく力なく雪花が笑った。
 「もしそう為さりぃしたら、お恨み申しぃすえ」
 ぱたぱた、と涙が次々に零れ落ちていくのにも構わず、雪花はコーザの顔を見詰める。
 「薄情なお人だと―――――お恨み申しぃすえ」
 
 濡れた手ぬぐいが直前まで置かれていたのだろう、頬と比べて少しだけ温い額に自分の額を押し当てる。
 「あちきにはお前さましかおりんせんと、申しぃした――――お忘れになりぃしたかえ…?」
 さらさら、と髪を撫でて、雪花が呟いた。
 「コーザさま……お目を開けておくんなんし……」
 
 
 
 * 六拾弐 *
 
 次郎久右衛門は医者が退室していったのを見届けた後、雪花が縋り付くのを堪えて深い悲しみに見舞われているのを見詰めていたが、覚えのある気配が母屋から近づいてくる気配に、す、と視線を上げた。
 そのまま音も無く、孫が寝かされている茶室の手前の部屋に移る。
 使用人に知らされでもしたのだろう、なにやら慌てて来たようだった娘婿の遠衛門吉親が、息子を見舞いに来た人物と会いたそうにしているのを留め、ぼそりと呟いた。
 「天人を連れてまいった、これでダメなら養子を探せ」
 何を言っているのだ義父殿は?と困惑した目線で見上げた遠衛門吉親に、次郎久右衛門は呆れたように告げる。
 「天人といえば楼上の花に決まっておろうが、婿殿」
 
 遠衛門吉親は、息子をじっと見詰めている線の細い麗人の背中を見遣った。
 花魁を身請けしたいと言い出したコーザを成敗する、とまで言い放った遠衛門吉親にとって、その人と会うことには躊躇いがあった。
 そんな遠衛門吉親の内心を察してか、じろりと次郎久右衛門が娘婿を見下ろした。
 「これでアレが生き返れば申し立て罷りとおらせんぞ」
 侍である自分をまるっきり恐れない大商人である義父は、コーザが生まれ出る前から孫の絶対的な味方だった。彼の娘を娶る時に盛大に睨み合いを展開した遠衛門吉親は、妻になった彼の娘が自分に味方してくれたからこそ結婚できたと思っていた。だから今更この義父に勝てるとは思ってはいなかったけれども。
 「死んだと思って諦めれば何なりと行幸となる」
 そうとまで義父が言い切るのに、深い溜め息を吐いて太夫の背中を見遣った。
 
 義父が入手したのだろう、地味な色合いながらゴテゴテに手の入った男物の着物に包まれたすらりとした身体。その背中で揺れる長い艶やかな黒髪。
 多少背が高いようではあるけれども、哀しみに肩を震わせている線は細く、静かに嗚咽を零しながらコーザに語りかける姿には遠衛門吉親ですら胸が締め付けられるようだった。
 現に時折様子を見るために部屋を覗く医者までが、貰い泣きをして手拭いに顔を埋めている始末だった。
 次郎久右衛門が、太夫を廓から呼び出してくるのに苦労した、と言うのに溜め息を吐いた。
 低い声が続ける。
 「お目付け役が二人も付けられておるわ」
 
 次郎久右衛門が顎をしゃくった先にいたのは、しかめっ面も心強い浪人風情が一人と。まだ若い、細いけれども奇妙に凛々しい小僧が一人。
 そうまでして大切な花魁をきっと無理を言って連れ出してきたのだろう義父を、遠衛門吉親は静かに見遣った。
 「婿殿、」
 そう言って息子にも遺伝した金色の光りを弾く強い眼差しがじっと見詰めてくるのに、遠衛門吉親は僅かに居住まいを正した。
 「これが生きるも死ぬも、いずれにしろ太夫は身請けをさせる。金子のことは案ずるに及ばんぞ」
 そして、ふい、と次郎久右衛門がコーザに視線を戻した。
 「これの命の代金ならば、金でいくらでも買おうさ」
 
 すっかり心を決めてしまっている次郎久右衛門に、娘婿である遠衛門吉親は深い溜め息を吐いた。
 確かに太夫一人で大事な跡取り一人の命が帰ってくるのならば――――――致し方あるまい、と。
 
 
 
 
 
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