* 六拾参 *

雪花はずっとコーザの頬を撫でていた。
熱に火照った肌は、指先に酷く熱く感じる。
「あちきが代わることが出来ぃしたなら、いくらでもお代わりいたしぃすのに」
止まる様子も無く流れ落ちる涙がコーザに落ちないように何度も袖で拭いながら、雪花がそうっと囁いた。
どうしてこんなことになってしまっているのだろう。愛し合ったのはそう遠くないことで、その時にはコーザは若くて強い侍らしく、強く雪花を抱き締めてくれたのに。

眼の下に写る包帯の巻かれ方からして、長く斜めに切りつけられただろうことを知る。
雪花は刀を見たことが無かったけれども、用心棒のゾロが腰に差しているところを見て、その長さに驚いたのだった。
雪花の―――――セトが住んでいたイギリスの館には、先祖に売り払われずに残った騎士の刀が甲冑と共に残されていたけれども。それは実用からは遠のいて、館の飾りに成り果てていたものだった。変わりに使っていたのは長銃や短銃であり、未だに人と人が剣で討ちあうことに奇妙な現実の無さを感じていた。
セトが扱ったことのある武器は、猟銃と兎や鳥を捌くための短いナイフであり。幸運なことに武器を持った人間と対峙したことがなかったから、侍という階級の人間が考えることをセトは理解し得ていなかった。
基本的には銃を突き付けあうのも刀で向かい合うのも一緒だろうとは思うけれども……。

「お前さまに置き去りにされしぃしたら、あちきは生きている意味などありんせん……お前さまがお側におりぃせんのでしたら、この世界のどこにもあちきには居場所がありぃせんえ……」
震える声で囁いていた雪花が、はっと息を止めた。ぴくん、と瞼が反応したことに、頬を撫で続けていた指の動きも止まる。
「――――コーザさま、聴こえておりぃすかえ…?」
緊張した声でそっと語りかけた雪花に応えるように、酷く掠れて殆ど吐息のような小さな声で、コーザが雪花の名前を呼んだ―――――――セト、と。

くう、と泣き笑いを浮かべた雪花が、ぽつりと呟いた。
「―――――お側におりぃす」
睫が震え、コーザがうっすらと瞼を開いた。雪花がコーザの頬を片手で包み込み、そっと顔を覗きこむ。
なくな、と言った語尾が掠れて消えていたけれども、雪花はコーザが告げた言葉を正確に聞き取って、くぅ、と微笑んだ。新たな涙がその頬を伝って落ちたのを拭うこともせずにきっぱりと言って返す。
「――――泣いてお前さまがあちきを置いていけなくなるのでありぃしたら、いくらでもあちきは泣きぃす」

ほんの僅かに口端を引き上げて笑ったコーザの髪をさらりと撫で上げ。
また閉じられていった瞼に、宥めるようにそうっと頬を撫でる。
「――――ずっとお側におりぃすえ」
そう囁いた雪花に、吐息に混ぜて途切れ途切れにコーザが返す。
間違って極楽に来ちまったかとおもった、と。
ふわりと泣き笑いを浮かべて、雪花が囁く。
「……そんなところにあちきはおりんせん」
そして、祈るように言葉を継いだ。
「あちきを置いてお行きにはならないでおくんなんし」



 * 六拾四 *

告げた言葉に、あぁ、と返事を返したコーザが、すぅっとまた眠りに戻っていくのに、雪花が深い息を吐いた。
二人が会話を終えたのを見届けた医者が、すかさず寄ってきたのに、雪花は少し動いて場所を提供した。
そのまま、口許を着物の袖で押さえ込んで、医者がコーザの熱を測り、脈を測っている様子をじっと見守る。

医者がその場にいた全員に聴こえるように、静かに告げた。
「眼が覚められたなら、ひとまずはご安心されますように」
あとは熱の具合と傷が巧く繋がれば、と続けたけれども、その実、応急処置を施した人間がどうやら素人ではないことと、塗られていたなんらかの薬の効き目が非常によく作用していることを知って、通常この程度の重症を負った患者に対するよりか多少楽観していた。

ホッとして深々と医者に頭を下げ、また元の場所を医者に譲られて戻った雪花が、そうっとコーザの額に口付けをした。
「このまま夜が明けるまでに何事もなく、事態が急変しなければおそらく峠は越えられたものと」
そう言ってくれた医者に、深々と雪花が頭を垂れた。
「ありがとうござんす、」

医者が立ち上がって隣の部屋へと移り。次郎久右衛門と遠衛門吉親と話し始めたのに背を向けて、雪花はコーザに視線を戻して、両手でそっとその片手を握った。
「早ぅ良ぅなっておくんなんし、コーザさま…」
ふわりと微笑んで静かにコーザの手を撫でる雪花を、声も無く涙を零しながら少し離れたところから見詰めていたサンジは。次郎久右衛門に呼ばれて、ぐい、と両目の涙を拭った。
「ナンデスカ、三鷹屋のオオダンナサマ」
うむ、と頷き。次郎久右衛門は、女中は隣の間に控えさせておくから水の換え等を必要に応じて言いつけるように、と告げた。
「解りました」
そう応えて、サンジが雪花の側に行き。コーザの側を離れない雪花のために、布巾を絞って手渡す―――――コーザの世話を雪花がすることが許されたことに、ほっと安堵の溜め息を吐いた。

二人の慣れたコンビネーションに遠衛門吉親は微かに首を傾げ。けれど義父や息子のように吉原の大見世に寄ったことなど無い真面目な国侍は、そんなものなのかもしれない、と思い直して溜め息を吐いた。
丁度タイミングが良かったのか、はたまた恋路の為せるワザなのか。通りがかりの絵師に運よく助けられて運び込まれてからは一度も目を覚ますことの無かった息子が、太夫が来たことで意識を取り戻したのだ。
確かに天人のように不思議な美しさを持った太夫を一目見てしまえば、息子が惚れ抜いてしまうのも仕方が無いと遠衛門吉親ですら納得しざるを得なかった。
それほどに太夫は美しく、花魁であるにも関わらず、どこかすぅっと清らかで。立ち振る舞いは優雅でそこはかとない色気があり。心配に痩せてやつれてはいても、知性を匂わせる仕草にはどこにも嫌らしさがなく、ただ息子に想いを寄せているのだということだけを如実に現していた。

奇天烈極まりない次郎久右衛門の愛娘であった彼の妻に惚れ込んで、多少の無理を言って無事に娶ることのできた経緯を考えれば、次郎久右衛門によく似た性格を持つ息子が大人しく宛がわれた許婚と唯々諾々と結婚するわけもなく。甲斐甲斐しく息子の側にいる太夫を見れば、もう遠衛門吉親に言える言葉はなかった。
武家の嫁になるには相当の苦労がある。ましてや太夫の身分では、ただの女性として生きていくことにすらこれから苦労することだろう。言い出したら聞かない息子ではあるけれども、生半可な決意で太夫を娶ることを決めたわけではないのだろうから、その分のフォローはきっちりとこなすだろう。苦労も二人で乗り越えていけばいい――――――それは遠衛門吉親が関わるべき問題ではない。

こんなことになるのであれば、息子が太夫を嫁に、と言い出した時に、言い分だけでも聞いてやればよかった、と遠衛門吉親は思った。花魁を嫁になどとんでもないことだ、そう思ってはいたけれども、実際に太夫を見てみれば、これほどに純粋そうなヒトにはついぞお目にかかったことのない有様だった。
もう少し落ち着いてくれば、挨拶に訪れるだろうと考え、さてどんな風に相対するべきか、とちらりと考え、いやまずコーザの回復が先だ、と思い直す。
そして遠衛門吉親は部屋を一人出て。太夫とそのお付きが茶屋で寝泊りできるよう、支度を整えておくように使用人に告げた。




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