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 * 六拾八 *
 
 コーザの傷を消毒し、包帯を新しいものに医者が替えていっているを手伝い。もう心配はないだろう、あとは日参させていただく、と告げた医者に、雪花はそっと頭を垂れて部屋を後にしていくのを見守った。
 漸く二人きりで残され。痛みに僅かに額に汗をかいているのを、雪花がそっと手拭で拭っていく。
 次郎久右衛門とコーザのとんでもない遣り取りが無事に済んだことにほっと気分は落ち着きはしたものの、今度は少しばかり力が抜けすぎて指がどうしても震えてしまっていた。
 それを見止めて、コーザがそっと、セト、と名前を呼んだ。
 盥で手拭を冷やしていた雪花が、その手を止めた。
 
 「あの奇態な御仁には、さぞ驚いただろう」
 少し掠れたような声で静かにコーザが言う。
 「ひとりで先に会わせるつもりなど無かったが」
 雪花がふる、と小さく頭を振り。きゅ、と手拭をきつく絞ってから、そっとコーザの額を拭った。
 それから酷く小さな声で。ぽそっと呟いた。
 「……もう二度とあちきを置いていこうとはしないでおくんなんし」
 
 じっと見上げる金混じりの琥珀がかった双眸を見詰め。うっかりと本音を洩らしてしまったことに耐え切れず、雪花がぷいっと顔を背けた。
 指は、けれど縋るようにコーザの浴衣の端を握り緊めている。
 後悔している様子の雪花に、コーザはそっとその名を呼び。自分の着物を握り緊めている雪花の指にさらりと触れた。
 それでも振り向く様子がないことに、もう一度、セト、と名前を呼ぶ。
 ゆっくりと振り向いた雪花の蒼氷色の双眸が涙に潤んでいるのに、僅かに眼差しを和らげる。
 
 「悪かった、」
 そう真摯な声で告げながら、ゆっくりと雪花の冷えた白い手の甲を指先でなぞる。
 そしてじっと見下ろしてくる双眸を見詰め、正直に告げた。
 「約束は出来ねェよ、」
 もう僅かばかり潤んだ蒼を見詰めながら、そうっと言葉を次いだ。
 「けどな……?戻って来られるようには足掻くサ」
 いつもの口調で淡々と言う。
 「それで許せ」
 
 目許でくしゃっと笑った男に、雪花は先程より小さな声で一言、
 「……ばか」
 と、そう呟き。包帯に隠されていない方の眉や目許、眉間と鼻先にそっと唇を押し当てていった。見詰めてくる双眸を見下ろす。
 「わがままを言ってみただけでありいす」
 そうむしろきぱっと言い切り、いっそ晴れ晴れと笑った。
 「よござんす。お好きになされませ。あちきも勝手に後を追わせていただきいす」
 そして、そうっとコーザの唇を啄ばんでから、さばさばとした口調で言い切った。
 「文句はききんせん。お前さまも覚悟しなんし」
 
 
 手拭を盥で一度漱いでから絞り。それを縁に掛けた雪花が、じっと見詰めてくるコーザの怪我していない方の横に、こてんと身体を倒した。
 まだ僅かに熱を持って火照った腕にそっと腕を絡ませ。少し細く尖った肩に、く、と額を押し付けるようにして目を閉じる。
 
 温かな身体が直ぐ側にあることに、コーザはくうっと口端を引き上げた。
 安堵して、静かに目を閉じる。
 顔半分と上半身の傷はずくずくと脈打つように痛むし、微妙に常より高い体温は思考をふわりと曇らせる。
 それでも生き返ったことは僥倖だと思い、なにより目覚めて直ぐにセトに会えたことが嬉しかった。こうして今も側に居てくれるしな、と思ったところで何時廓を出たのだろう、と不意に疑問が思い浮かぶ。
 いずれはそうなるようにと、シャンクスに話しはしてあったから、祖父と示し合わせたのだろうことぐらいは安易に想像が付いた。妙に馬が合う二人であったから、父の思惑などさておき、無事に雪花を連れ出してくれたのだろう、と。
 
 目が利く祖父は雪花が異人なのも、男なのも、会った瞬間に解ったのだろう。
 けれど、それを父親に言うでもなく胸に秘めたまま、大層気に入ったのかセトのことを可愛がってくれているらしい。
 そしてセトが安心して離れとはいえこの屋敷で既に生活しているようなのが、酷く嬉しかった。廓での生活とは大違いである筈なのに、少しやつれて細くなったようではあるものの、柔らかな笑顔は変わらず、元気そうであったし。
 
 一人だけで廓を出すことなど、セトの秘密を考えればありえないことだと不意に思い当たり、一体誰を供に連れてきたのだろう。
 そうつらりつらりと考えたところに、ふと人の気配が近付いてくるのを感じ取った。
 それは覚えのある気配であったけれども、屋敷の人間のソレとは違い……。
 ふい、とコーザは片眉を引き上げた。祖父が言っていた謎の言葉が頭を過ぎる。
 「……狸御殿か、なるほどな」
 笑みを浮かべて、ぽつりと呟く―――――この気配は、“サンジ”のものだ。
 「無事で何よりだ、よくも誑かしてくれたな?」
 
 やはり廓の主人は一筋縄ではいかないらしい。
 凡そあったであろうことを察して、僅かに苦笑を刻んだ―――――ではゾロとの邂逅はすでに済んだのだろうか。それに立ち会えなかったことだけが、おおいに残念ではあったけれども……。
 
 「失礼します」
 そう懐かしいけれども僅かに低い声が言い、からりと襖が開けられ。す、と雪花が起き上がっていた。
 サンジが持ってきていた土鍋を受け取り、それを小さな卓の上に乗せていた。
 男装しているのではなく、男であることに僅かに口端を引き上げ。す、とサンジが雪花がいる方とは布団を挟んで反対側に回ったのを見上げた。
 どこか微笑んでいるようなサンジが、す、と頭を下げた。
 「お久しゅうございます」
 
 「世話を掛けたな、ありがとう」
 そう真摯な声で語りかけられ、サンジは面を上げた。責めるでもなく穏やかな眼差しに見詰められ、サンジはもう一度頭を垂れた。
 「こちらこそご迷惑おかけしましたこと、あいすみません」
 深々と頭を下げたまま、礼を述べる。
 「姉さまのお側においでくださったと聞きました。感謝致しております」
 サンジの言葉にコーザがにこっと笑った。
 「そりゃあ太夫は泣いてタイヘンだわ、ゾロは物騒な面で怖ェわ、で大騒ぎさ」
 僅かに掠れた、常のように強さを含まないからかい声に、サンジは笑って、す、と姿勢を正した。
 ゆっくりと起き上がろうとしていたコーザが上半身を上げるのを手伝う。
 ふぅ、と一つ息を吐いたコーザが、サンジに言った。
 「けどまァ、太夫を泣かせたってンならおれもオマエと同じ穴の狢だナ?」
 笑いかけられ、サンジも小さく微笑んで頷いた。
 
 重湯を椀に注いだ雪花が側に戻ってきて、小さな匙に掬って湯気の立つそれにふぅふぅと息を吹きかけているのをサンジは見守る。
 当たり前のように雪花がそれを、はい、とコーザの唇の前に差し出すのに、僅かに目を瞠った。
 困り顔でコーザが雪花を見遣る。ぽっと僅かに雪花が頬を染めていた―――――ああ、ああいう甘えた仔犬みたいな顔が姉さまは好きなのか、とサンジはちらりと思った。
 コーザがぽそっと呟く。
 「…女中にさせろよ」
 照れ隠しなのか、どこかぶっきらぼうに呟かれた言葉に、にっこりと雪花が笑った。
 「い・や」
 くっきり、はっきりと言い切ったのに、サンジは内心、おおー、とどよめいた。未だ嘗て雪花がこれほどまではっきりと物を言い切るのを、サンジは聞いたことがなかった。
 サンジの内心の驚愕は他所に、雪花がさらにきぱっと言い切った。
 「折角お起きになられてお側におりぃすのに、そんなの嫌でありいす」
 そしてまだ困ったように見詰めてくるコーザに、すい、とまた匙を差し出した。
 「お嫌でありいすのなら、早くお身体を治されませ」
 
 つん、とすまし顔になった雪花に、とうとうサンジは堪えきれずにぷっと吹き出した。
 そして笑いながらコーザに告げる。
 「畏れながら、コーザさま。姉さまは漸く生き生きとおなりのようです。同じ狢とおっしゃるのであれば、我慢してお付き合い願います。サンジは席を外しますから」
 ちらっと視線が投げ遣られたのに、にぃ、と笑みを返し。さっさと立ち上がって、失礼します、と部屋を後にした。
 
 二人きりで残され、雪花がじっとコーザを見詰めながら言った。
 「こんなことをするのは小鳥に餌を遣って以来でありぃす。さ、口をお開けになって」
 不承不承、コーザが溜め息を吐いた。
 「小鳥かよ、」
 そうぽつっと苦笑交じりに呟き、ぱかりと口を開いた。
 そうやって丁寧に三口ほど口に運ばれれば、それ以上は食べる気になれず。雪花もその辺りの引き際は弁えていたのか、無理をして食べさせることはせずに代わりに温い白湯を入れた湯呑みをそっと口に宛がった。
 一口飲んだのを確認してから、医者に手渡されていた丸薬を一つ取り出し、コーザの口にそっと落とし入れ、また湯呑みを唇に当てて湯を飲ませる。
 
 薬を飲み干したコーザが、ほうっと深い息を吐いたのに、雪花は湯飲みを盆に乗せた。
 口許を手拭で拭い、それからコーザが楽に横になれるように、背中をそっと撫で下ろす。
 目許をふわりと和らげ、コーザが雪花の頬にさらりと触れて言った。
 「またあなたの笑う様が見られた」
 ふわりと微笑みを浮かべ、雪花はコーザが布団に横になるのを手助けし。元のように布団を被せてから、そっとコーザの額に唇を押し当てた。
 「またお声が聞けて嬉しい」
 ふわりと微笑み、さらりとコーザの髪を直してから呟く。
 「早う良うなってまたあちきを抱いておくんなんしね」
 
 僅かに微笑むようにして目を閉じたコーザが食べ残した盆を下げ。そっと隣の部屋に居たサンジにそれを渡した。
 サンジが笑ってそれを受け取り。傍らに置いてあった着物を目で示した。
 「コーザさまがお眠りになったら、盥に湯を張ってこちらに持ってきておきます。そうしたら大旦那様が戻られる前にお着替えになられると良いかと」
 「あい。夕刻になりぃしたら遠衛門吉親さまも戻られることでしょう。ゾロさんはどうしんした?」
 「大旦那様にご同行した様子でしたよ。三鷹屋さまのあのご様子じゃあ、道場破りと思われかねませんしね、お弟子さんとしては心配になりますでしょ」
 「そうでありぃすね。大旦那様は若々しくていらっしゃってもお孫さんのおられるお年でありぃすし」
 
 心配そうに目を細めた雪花の様子に、ぱたぱたと手を振ったサンジが、ついでにとばかりに首をも横にぶんぶんと振った。
 「違います違います、道場の方が心配なんですよう。なんていったって三鷹屋の大旦那さまはそんじょそこらのじいさまとは一味も二味も違いますからねえ。ヘタすればゾロだって敵わないお相手ですから、もしかしたら師範さえもぶっ飛ばしかねません」
 サンジの言葉に雪花は目を真ん丸くし。それからくすっと笑ってサンジの頭をさらりと撫でた。
 「もしゾロさんがお怪我をして帰られたら、一緒に看病しんしょうねえ」
 雪花の言葉に、ぱっと顔を赤らめ、サンジが言った。
 「ゾロなんかはその辺りに転がしといて充分です!それより姉さま、コーザさまがあちらできっとお待ちですよう。サンジはさっさと行ってきますからもう戻っちゃってください!」
 ぱたぱたと茶室を出て行ったサンジを笑って見送って。そうっと雪花が木戸を閉めてから、ほう、とひとつ深い息を吐いた。
 そしてコーザの側に戻り。既に深い眠りに戻った男を暫し見詰めてから、座り込んだまま目を閉じた。まだ気は抜けないものの、漸く雪花もきちんと眠れそうだった。
 
 
 
 * 六拾九 *
 江戸市内:遠衛門吉親の上屋敷
 
 公務から帰ってきた遠衛門吉親は、江戸城から真っ直ぐに息子が療養している離れに向かった。
 すっかり見慣れた息子の艶やかな情人はその場におらず。女中に命じさせてあった通りに先に母屋で湯浴みをしてくれているらしい。
 代わりに息子の側に居たのは、代々世話になっている医者一人だった。
 「あまり長くはお話しになりませぬよう」
 そう言って一歩下がった医者の代わりに、息子の側に寄った。じっと穏やかな眼差しで見詰めてくる、亡くした妻に似た面差しを持った息子が多少元気そうなことに、じんわりと目の前が涙で潤んだ。
 コホン、と咳払いをする。
 
 「まだ楽隠居はできないと、泣いておられますか」
 かすれてはいるけれども、柔らかな声でそうからかってきた息子に、ばかもの、と小さく呟く。
 「ご心配をおかけしました」
 無理を押してでもそこまで言い切る息子に、遠衛門吉親はぐっと涙を堪えた。
 「心配したに決まっておろう、バカ息子めが」
 唸るように告げた遠衛門吉親に、コーザは僅かに目を細め。それから深い息をし、そっと囁くように言った。
 「あとで、おれの自慢の人に会ってくださいますか」
 
 それが誰のことだか直ぐに理解し。“おれの自慢”だと言い切る息子の言葉に今は最早反発も覚えず、素直に頷いた――――献身的な介護を慣れないながらも立派に勤めている息子の情人は、傾城の美人に成り得る容姿の持ち主ではあったけれども。少し落ち着いた頃に覗いた遠衛門吉親に雪花と自らを名乗り、コーザの側に在ることを許されたことに深々と頭を垂れたようなきちんと礼儀を知った人間だった。それ以外に言葉はあまり交わさなかったけれども、毎日交代で息子を診てくれていた医者も、茶室に入ることを許した古参の使用人たちの誰もが、雪花を心優しい聡明な人だと言い切っていた。花魁でさえなければ、諸手を上げて歓迎したいような、良い人だった――――義父に釘を刺されたこととは関係なく、もうそのことに拘らないことに心を決めた遠衛門吉親ではあったけれども。
 
 「後できちんと会おう。だからいまはしっかりと休め」
 そう横たわる息子に告げて、部屋を辞した。もう薄暗い夜空を見上げても、瞼の裏にはコーザの目を閉じている姿があり。それがいつしか、妻の記憶へと移ろっていくことに、遠衛門吉親はちいさく溜め息を吐いた。
 「……お前ならばなんと申したかな」
 知らず独り言を呟いたことに気付き、遠衛門吉親は小さく頭を振った。
 「案外、諸手を上げて喜んでおったかもしれんな。馬鹿息子には過ぎたお人だ」
 
 
 
 
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