* 七拾 *

江戸市内:勝海舟の屋敷

『内密に話をする必要が在り、今より一刻が過ぎた後伺いたく候』
そんな味もそっけもない文章が勝海舟の下に届いたのは、夕刻を少し過ぎた頃だった。
それを届けたのは町の文屋で、身形のきちんとした若いお侍から受け取ったと言っていた。
昼過ぎに訪れた客が無ければ、一体何用で自分の下を訪れるのか疑問に思ったことだろう。文の最後にサインされていた名前は、滅多に顔を合わすことなどない、公儀隠密頭のものだった。
目立たなく、朴訥な感じすら伺わせる部下一名を引き連れた男を乗せた籠は、きっちり一刻後に屋敷の門の前に現われ。訝しがる門番に、客だと説明して招き入れた。
頭巾を被って現われた男は、大柄であってもきっちりと身体が締まっており。いかにも一族の長らしく、堂々たる風格を持ち備えていた――――正面で向き合えば、威圧感は完全に押さえ込んであるけれども、どこにも隙が無いのが伺え、勝はほんの僅かだけ、口端を引き上げて笑った。

茶を運んできた使用人を下がらせて、今は頭巾を取った男を見上げる。まじまじと見詰めれば、厳しそうではあるけれども若々しく端整な顔をしていることを初めて知った。
江戸城で顔を見合わせるときはもっと厳めしい年配の男だという印象を受けていたから、自分よりも僅かに若いかもしれない男だということに気付き。その老成振りと、その若さで一族の長に選ばれ見事にその命を果たしている男の有能ぶりに、ぽり、と頭を掻いた。
表情を読み取らせないような男の闇色の双眸が、ほんの僅か和らいだ。
「突然の訪問で相済まぬ」
そう軽く頭を下げた男に、勝は目をきらりと一瞬鋭くさせた。
「今日はお客人が多いやネ」
す、と男が僅かに口端を引き上げたのに、ああヤッパリ把握していやがったか、と内心で小さく笑った。寧ろ、それを踏まえてのこの訪問なのだろう。

「三鷹屋の大旦那もお立ち寄りだったヨ、わざわざ弟子の無事を知らせてくれてネ」
そう目許で笑ってから、茶を一口呑んだ。
真っ直ぐに深い視線を合わせてくる男の目を見上げる。
「まったくとんでもねェことを言い出しやがる、あのお人は。とはいえ、オレも反対はしねェよ」
主語を抜かして話し始めたにも関わらず、男は――――ベン・ベックマンは、じっと勝を見据えて、話しの先を促した。
勝を先生と慕うコーザと、その情人である異国人の花魁・雪花を国外に逃す、と淡々と言い切った三鷹屋次郎久右衛門の思惑を、お庭番衆の頭領である目の前の男がどこまで把握しているのか、勝は知らなかったけれども。コーザが惚れた花魁はこの男の“娘”なのだと次郎久右衛門は勝に言った。浜に打ち上げられていたまだ幼い雪花を廓に預け、隠し育てていたのだ、と。
一度だけコーザが会わせてくれた雪花は、吸い込まれるように美しい外見とそれ以上に優しく純粋な心を持ち合わせている気高い人だった。雪花がコーザと出会うことが無ければ、そんな“娘”をどんな風にこの男は扱うつもりでいたのだろう、と勝は思う。
相対してみれば、厳格そうではあっても決して冷酷ではなく思えるベックマンを、勝はしばし眺めた。
男はそんな勝の視線に動じることなく茶菓子を口に運んでいて、その様子は男の胆の据わり方が半端でないことを物語っていた――――そうでもなければこの若さで、一族を率いることなどできないのは当たり前なのだが。

この男が何を思って、ともすれば一族を破滅に追いやりかねない程の国に対する裏切りと判断されかねない行動に出たのか、勝は知る由も無かったが。国内のみならず国外の情報にも、多分この国で一番通じているだろう忍び者の長は、この件に関しては完全にグルなのだろう。このことで秘密裏に罰せられることはない、とはっきりと言い切った三鷹屋次郎久右衛門の、強い光りを含んだ金色の双眸を勝は信じた。“目が利く”ことで豪商と成り得た次郎久右衛門の目利きは、伊達ではないのだろうし。

軽く笑うようにして、勝は目許を細めた。
「ただ、あの弟子は馬鹿がつくほど一本気な男だからネ。いまからの大事って時にてめェが一抜けするなんざ、簡単に納得するようなヤツじゃあ無いサ。そこのところはオレに任せてくれていい」
にぃっと笑いかけると、面白そうに男が片眉を跳ね上げた。
勝は男の思いのほか豊かな表情に、軽く眉を跳ね上げて訊いた。
「けど、あんたさんも変わっていなさる。ご公儀の法度だろうにサ」
す、と茶を一口飲んでから、男が淡々と深い声で言った。
「確かに公儀風情が首を出すことではないといわれるだろうがな。膿んだものを切り捨て正すのがそもそもこちらの仕事。この国を思うのであれば目指すは節々腐った現状の維持ではなく、この先に来る嵐に耐え得る国造りだ。そのための人材育成の一環だ……といえば筋も通ろう」
くう、と勝は顔を歪めた。
「あんたさん、話しが固すぎやしねェかい?」
そして、溜め息混じりにベックマンに言う。
「正論が通りゃァいまごろこの国は極楽サ。お偉いサン方は“国”と“自分”の区別もついちゃあいねェよ?あのバカが長崎まで行ってられたのも、どうしようもねぇ放蕩息子だからってェお目こぼしだからナ。その論が通るにはまだちょっと早いんじゃねェか、あんたサンも感じちゃいるンだろうがね」

言葉を区切り、一度窓の外を見遣ってから、皮肉交じりの勝の言葉にも表情ひとつ変えない男の顔に視線を戻した。
「まァいいさ。あんたさんの中で筋が通ったなら、企みに乗りなさるんだろう」
そして公儀隠密である男に対して、堂々と言い切った。
「内からも外からも、一度ゆすぶられてバラけた方がいいさ、ニッポンは」
ベックマンは、僅かに目を細め。けれどそのことを肯定も否定もしなかった。
咎めすらされなかったってェことはどういうこったねェ、と考えながらも、勝は一呼吸置いて話しを進めた。
「そもそも、あんたさんがこの“企み”の大元か。異人の子をよく生かしておいてくれたもんだ」
くうっとベックマンが笑った。
「公儀が大っぴらに異国の言葉を習うわけにもいくまい?」
ただその一言で多くを語ったベックマンを、勝はじっと見遣った。
淡々と男が続ける。
「本音を洩らすならばあれらを国外に遣ったところでこの国がそうそう変わるとは思ってはおらんよ。自由に見聞きして来い、と送り出す以外にできることもない。そもそもあれらの行く末までは面倒見切れぬからな、いつか戻って来いとも言わぬつもりだ。拾い育てた小鳥が籠から飛び立てば、オレの役目は終わりだ。勝手な言い草だがな」

そうは言っても、今は英吉利領となった香港に連絡を入れるために使える住所を一つは抑えているベックマンではあったが。そのことは勝には言わずに居た――――立場上、いつ何時、目の前の男の暗殺を請け負わなければならなくなるか解らなかったから、あまり近親間を持たれることを望んではいなかった。勝とて、あまり腹の内をベックマンのような立場の男に知られたくはないだろう、と。
ベックマンの思いなど知らぬ勝が、片頬で笑った。
「幕閣連中にあんたさんの器量の半分もありゃあ、オレも少しは励むがね、」
そう言ってから、苦笑したベックマンに、きっぱりと言い切った。
「じゃあ決まりだな」

公儀隠密の頭領が抱える秘密の共謀者になったことを、勝はメリットともデメリットとも捉えていないらしい。それだけコーザという男には思い入れがあるのか、それともそんなことを考える柄ではないのか。
別れの挨拶を述べたベックマンは、頭巾を被る前に男にさらりと告げた。
「暫くこちらにお篭りのようだったが、勝殿が出歩くにあたって暫くは安全だと思っていただいて結構だ。襲撃者どもの遺体は総て町方から引き渡されており、明日明後日には身元に関する連絡が入るだろう。老狸はシラを通しきるだろうがな、そう簡単に使い捨てにできる手駒など持ち合わせてはおられぬ」
ベックマンの言葉に目を煌かせた勝に、ベックマンは静かに背を向けて告げた。
「オレ個人の予測ではあるが、五年以内には異国の軍艦がこの国の沿岸まで達すると考えられよ―――美味い茶菓子の礼だ」

真剣な眼差しが向けられるのに振り向かず、縁側で茶を馳走になっていた部下に合図を送り、籠に乗り込んだ。
ゆら、と籠が浮き上がり、木戸が開く音と共に、えっほ、えっほと掛け声が響く。
外の音を静かに聞き取りながら、ベックマンは初めてまともに言葉を交わしたばかりの勝海舟という男について考え始めた――――手駒として考えるには自由闊達すぎる男ではあったが、これからの時代を担っていく器の一つだろうという印象を受けた。
ベックマンの手札として使えるような性格の扱いやすそうな男ではなかったが……面白い人間だ、とベックマンは思い。秘密の代価として多少の情報の融通を利かせてやろうと決めた。
部下からコーザが回復傾向にあることも、雪花が側に在って元気にしていることも、三鷹屋が千葉道場を訪れた後に勝の屋敷に寄ったことも、今ゾロを連れて何をしているかも全部承知のベックマンは。療養のために自宅の離れで寝ていながら、本人の与り知れぬところでコーザの人生の行く末が着々と決定されていっている現状を思って、やおら口端を僅かに引き上げた。
「若サマはどう出るかな」
よもや雪花を捨てる等という事は万が一にも在り得ないが……もしそうしたのであれば、直々に首を刎ねに行ってやろうと思いついて、にんまりと笑った。そう考え付くほどに雪花という“娘”を大事に思っている自分が可笑しかった。

暫く会えていない情人にそんなことを言えば、きっと笑われるだろうと思い至り。朱華楼から朱駒も、雪花も、サンジさえも居なくなって適齢のコマを失ったベックマンは小さく溜め息を吐いた。
「さて、今度は何を口実にして行くかな」




next
back