* 七拾壱 *
吉原:『朱華楼』雛菊太夫の客部屋
朱華楼の座敷に客として自分が上がる日が来ることなど無いだろう、と思っていたゾロは。雪花が居なくなった今、一番の花魁として店を盛り上げている雛菊太夫の客部屋にシャンクスの計らいで招かれていた。本部屋に通されなかったのは、“馴染みの客”ではないからであり。それでも充分に破格の扱いを受けていた。
最も招かれていたのは三鷹屋次郎久右衛門であって、ゾロは単なるそのお供でしかない。
けれどそのことにゾロは不満は無かった。存分に飲み食いできるご馳走がゾロにも振舞われていたし、いつもは見世側の人間のようだった自分には、主客として扱われるには居心地の悪さを感じていた。
ツン、といつもすまし顔で道中に出ていた雛菊は。雪花のような淑やかな艶やかさはなかったけれども、ぱあっと大輪の牡丹でも咲いたような華々しさがあった。
次郎久右衛門の稀なる性格が面白いのか、本部屋に居る客は放置してなにやら随分と盛り上がっていた。
孫に乞われて融通したわふわふと懐っこい真っ黒でチビの犬―――名を瑠依というらしい―――を本気に相手にしているのが可笑しいのだろう。
昼間あんだけ大暴れしておいて、元気なジジイだぜ。さすが妖怪。
そう頭の中でぼやきながら酒を呷って、昼間在ったことを思い出す。
昼前に、籠を用意させて本当に真っ直ぐに千葉道場へと向かった三鷹屋次郎久右衛門に付き添ったゾロは。案の定、道場破りの勢いで稽古場に上がった次郎久右衛門が、『三鷹屋次郎久右衛門だ。稽古をつけに参った』と高々と宣言する場に居合わせるハメになった。
なにを、この町民風情のじじいが、と突っかかった血気盛んな若者も、道場で何年も稽古をしてきた古参の手練も、弟子たちの不甲斐無さに憤った師範代もあっさりと打ち倒し。
弟子たちにせっつかれて出てきた師範すらも暫し遣りあった後に打ち負かして、『短銃でも買うがよかろう』と真顔で言い放ったのに、深い溜め息を吐いたのだった。
『タダ者じゃねえよ、やっぱりアンタは』
そう常々思っていたことを告げれば、何を当たり前のことを言っておる、と目を細めて言い返された――――まだガキの頃、道場で出会って仲良くなったばかりのコーザに誘われて下屋敷の方に遊びに行き。その場に居たことを幸いにコーザと二人して稽古を付けてもらったら、本気でコテンパンに伸された記憶は、何年経っても薄れることがない。
道場で竹刀を振り回すのではなく、用心棒として本物の刀を振り回すようになって直ぐの頃、常勝を信じて疑わなかった自分をもう一度、コテンパンに伸したのも次郎久右衛門だったからかもしれない。
それ以来慢心を断ち、何人とも死合い、腕を磨いてきた今のゾロなら、どれほど常識外れにコーザの祖父が強いかは肌で知ることが出来る――――そして結果道場破りと成り果てた次郎久右衛門の“稽古”を見て、改めてその強さを知った。屋敷に帰ってからじっくりと手合わせ願いたくなるほどの強さで、掌に汗がじっとりと滲んだ。
手を出さずに真剣な眼差しで食い入るように見詰めていたゾロをちらっと見遣り、次郎久右衛門はフンと鼻を鳴らした。
『先に勝某の所へ伺っておる。後で来るがいい』
つまりは、この場の後始末を頼まれたわけだったが、ゾロは苦笑一つで応じた。年を経ても今も現役商人である三鷹屋次郎久右衛門は、退屈であることを心底嫌っていた。
コーザの回復が実際のものとして感じられた今日、どうやら“挨拶回り”をするところは一箇所だけではなかったらしい。
『しばらくノンビリ茶でもしばいててくれ。オレにすら面白いと思える先生だ、きっとアンタは退屈しない』
フン、と軽く身形を整えて出て行った次郎久右衛門をその場全員が絶句して見送り。その姿が見えなくなった途端に、全員がゾロをぎっと見遣った。
軽く両手を挙げてゾロは言った。
『あれがコーザの祖父殿の三鷹屋次郎久右衛門って名前のバケモノだ。孫の回復祝いの挨拶だと思ってくれていいと思う、もっともそれはオレの勝手な臆測だがな』
悪気はないジジイなんだ、率直なだけで。そう言い足したゾロに、全員が突っ込んだ。
『率直にもほどがあるわ』と。
けれど、次郎久右衛門の腕前と気性の激しさに焦りを感じたのか、竹刀を投げ飛ばされるだけで済んだ師範は、早く勝海舟の下へ赴くようにとゾロを急かした。
勝の屋敷で二人が何をどう語り合ったのか、ゾロは敢えて聞かなかった。
その代わり、久しぶりに自分に宛がわれていた大部屋の小箱の中から、自分の身の回りの物をいくつか取り出して包んだ。
雪花をコーザの屋敷に連れに行くと決めた時にこの屋敷を出た時は、マサカ自分までコーザの居る屋敷に寝泊りすることがあるとは思って居なかった。ただの花魁であれば、屋敷の人間に任せてしまえば、自分の役目はそこで終わる筈だった。
雪花が異国人であり、尚且つ男だという事実を知ってしまえば、今度はコーザと雪花の側を離れるわけにはいかなくなった。コーザの住む屋敷には、父親で幕臣の遠衛門吉親が抱える部下たちが、何人も住み込んでおり。彼等が何時“敵”になるか解らなかったからだ。
その日の夜遅くに勝の屋敷に一旦戻り。まだコーザの病状に変化が在り得る故に戻れないと告げれば、彼の代わりに側に居てくれ、と逆に頼まれた。
了承し、コーザと自分で打ち払った敵の総人数を考えれば近々また同じような襲撃があるとは思えないが、一応念のために暫くは屋敷に篭っているようにと進言し、その足で急いでコーザの屋敷に戻っていたので自分の荷物を纏める時間が無かったのだ。
着物数点と研ぎ石、先祖代々の位牌。そんなものぐらいしか無かったが、実質的に勝海舟の用心棒代を払っていたのが実はコーザだったので、勝の屋敷に置き去りにしているのもなんだか落ち着かなかった。
それらの荷物は全部で併せても風呂敷一枚で充分に包んでしまえる量だったが、勝の屋敷を出る時に、次郎久右衛門が勝の屋敷の人間にコーザの屋敷に届けるように何故だか手配していた。元より朱華楼に寄るつもりだったのだろう、確かに廓に持っていくには浮いてしまう荷物だった。
そうして手ぶらで次郎久右衛門に付き添い、大門を潜った時には驚いた。朱華楼で用心棒を遣っていたゾロのことを見覚えている門番が、酷く辛そうな顔をしてゾロにぽつっと呟いた――――どうやら雪花太夫は今生き死にの境界線に居るらしい、と。
事態を把握しきれずに、ぽかんとしていたゾロに。ぼそぼそと門番が語った。
『アンタさんが用心棒をお止めになってこっちに足を向けなくなってから暫く経って、あの雪花太夫が倒れて外に療養のために運び出されていったよ。籠に乗せられてここを潜る時には、真っ白い綺麗なカンバセが青白くなっててねえ。もう虫の息ってくらいに具合が悪そうで、もう意識も無いような塩梅だった。可愛そうに……あんなにキレイな良い花魁だったのだから、嫁ぐためにこの門を潜って行って欲しかったよ。貰い手ももう決まっていたようなもんだっただろう?……けどまあその貰い先も賊に襲われたっていうじゃないか、可愛そうな子だねえ。あれだけの美人だったから、滅多にしない同情をしちまうよ』
病人を運び出す以外の目的での籠の乗り入れがご法度の吉原だったので。大門の外で籠を降り立ち、ゾロと並んだ次郎久右衛門を見て、それがコーザの祖父だと思い出した門番が口を閉ざした。
何か言うだろうと思っていた次郎久右衛門は門番には目もくれず、真っ直ぐに原亭屋へと向かい、ゾロも黙ってその後に続いた。
茶屋で朱華楼に使いを遣った次郎久右衛門は、のんびりと寛いで顔馴染みだったらしい引き手茶屋の主人となにやら話しをし。朱華楼から喜助のエースが迎えに来るまで、ゾロに言葉をかけることはなかった。
朱華楼に迎え入れられれば、まずは雪花太夫の本部屋へと通され。部屋の主が居なくても綺麗に掃除され、花も活けられていた中で次郎久右衛門は最初のお目当てと再会した―――雪花の愛猫の碧だ。
いつの間に忍ばせていたのか、胸元からウサギの毛で出来た毬を取り出しそれを碧に向かって放り投げ。暫くそうして時間を潰した後、シャンクスが現われた。そこでゾロは雪花太夫の客部屋へと案内され、花魁が居なくなって寂しいだろう禿二人と再会した。
ナミは半べそをかいてゾロと視線を合わせ。あまりゾロと馴染む時間も無かったアディもつられたように泣いて、雪花を恋しがった。そこへエースも参加して、雪花太夫の容態が思わしくないようだと楼主に言われていることを聞かされ。反してコーザの容態は回復に向かっているようだということをゾロから知った三人が複雑な面持ちで黙り込んだところへ、雛菊太夫付きの禿であるノジコに呼ばれて禿二人が出て行った。
エースと二人きりで残されれば、先程までの表情はどこへやら、けろりとした顔でエースに訊かれた。
『サンちゃん、元気にしてる?』
目を丸めたゾロに、うけけけ、とエースは笑って。茶目っ気たっぷりに目を輝かしながら、しい、と言うように人差し指を唇に押し当てた。
『小僧さんになったんだって、お館さまから伺ったのサ。セトさんのこともな―――オマエさんもタイヘンな事態に巻き込まれたネェ、ゾロ』
エースはばっちり事情を知っていると理解したゾロは、へっと笑って返した。
『別にタイヘンじゃねェよ。役者じゃねぇから嘘は吐けないが、だんまりは得意技だからな』
『ウンウン。バカ正直な野暮天がオマエさんの代名詞だからねえ、ゾロ。サンちゃんもタイヘンだァな』
『うっせぇ。テメェは対した役者だぜ』
『アリガト』
『腹黒いってこった』
『いやん、褒められちゃったァ』
『褒めて無ェ』
『嘘ばっかりぃ』
軽くしなを作って、ぱちぱち、と目を瞬いたエースに、ゾロは深く溜め息を吐いた。
『……しかし参ったな。マジでここは狸御殿ってわけだ』
『苦界でありながら極楽だからねェ、この見世は。それなりに色々ありまさぁな』
にぃ、と笑ったエースの顔がシャンクスのクエナイ顔に良く似ていて。ゾロは、はぁ、と深い溜め息を吐いた。
暫くしてナミに呼ばれ。雛菊の客部屋へと向かえば、部屋一杯にご馳走を乗せた板を満たした次郎久右衛門が満足気にゾロに向かって頷いた。そして、雛菊が登場しての大宴会へと発展し、今に至る。
珍しく長く次郎久右衛門と居たシャンクスが、軽くゾロに視線を送ってきてから部屋を辞していった。ゾロも厠へ行く、と行って部屋を出て。そのままシャンクスの居る楼主の部屋へと向かった。
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