* 七拾参 *
江戸市内:遠衛門吉親の『上屋敷』
熱が下がって3日、漸く重湯からお粥を食べられるようになったコーザが、すう、と眠りに着いたのを見詰め。そっと雪花は盆を下げるために立ち上がった。
一昨日は夜遅く帰ってきたゾロは隣の部屋におらず。サンジもサンジで近くにはいなかった。
二人で散歩にでも出たのかと思い、雪花は小さく微笑んで部屋に戻ろうとし。けれど、からりと扉を開けて入ってきた人の姿に、にっこりと笑った。
「大旦那さま」
「連れて参ったぞ」
そう次郎久右衛門に言い切られて、雪花は小さく首を傾げた。
「毛だらけに決まっておろう」
そう威張って言った次郎久右衛門が、懐からにゅっと取り出したものに、雪花は目を丸めた。
「あお、」
ほんの三週間ほど見なかっただけで随分と大きくなった真っ白い猫は、両手と両脚を揃えて曲げてぶらりと大人しく下げられており。けれど雪花が呼びかけるのに、首の皮が伸ばされているせいで見開けない目を僅かに開いて、にぁ、と鳴いた。
次郎久右衛門の背後を追ってきた女中が、見覚えのある箱と籠を置いて部屋を辞していき。扉がきっちりと閉められた音に、次郎久右衛門が猫を床に下ろしていた。
とたたた、と碧が一目散に雪花の足元に駆け寄り。にゃあにゃあと賑やかに何かを懸命に語りかけながら、一生懸命にその足に身体をこすり付けていた。
「碧、随分と大きゅうなりんしたねえ」
拾い上げて肩に抱き上げれば、すりりと頬にほお擦りをしてくるのに、雪花が笑みをふわんと零す。
その間にも次郎久右衛門はコーザの寝ている側に上がっていった。
雪花が一度碧を床に置き、次郎久右衛門のために茶を支度し始めると、碧は物珍しそうに部屋中を見回して、その嗅ぎなれない匂いを懸命に分析していた。
手馴れた仕種で次郎久右衛門のために茶を淹れ、差し出し。雪花がぺこりと頭を下げた。
「碧をお連れくださりんして、ありがとうござんす」
ふわふわと柔らかい笑みに雪花の表情が蕩けているのを見詰めて、次郎久右衛門が満足そうに頷いた。
そして、部屋の暖かな場所で静かに眠っているコーザに碧が気付き。身長に布団に近寄りながら、ふがふがと慣れない薬の匂いを嗅いでいる様子に、うむ、と頷いた。
そのまま響くような声でコーザに告げる。
「毛だらけを連れてまいったぞ、起きろ」
次郎久右衛門の声に僅かに眉を寄せ、薄っすらと目を開いたコーザの顔元まで近付いた碧が。僅かにコーザが身じろいだために湧き起こった薬の匂いに、ぷしっ、と小さなクシャミをした。
ちり、と小さな鈴の音が間近ですることに、コーザがふんわりと微笑んでいた。
とてとてと小走りに碧が雪花の元に走りより。膝に片足を乗り上げて、にぁ、と鳴いた。
「碧、コーザさまに登ってはいけんせんえ。ね?」
言い含めるような優しいトーンに、碧はくうっと雪花に良く似た蒼い双眸を細めて。ころころと喉を鳴らしながら、今日は女物の着物を着込んだ雪花の膝に這い上がった。白く細い雪花の手指に優しく長い毛並みを撫でられていく感触にうっとりと目を閉じる。
「朱華楼の皆様はお元気でいんしたでしょうか?」
す、と甘みを含んだ柔らかな蒼氷色の双眸に見詰められて、うむ、と次郎久右衛門は頷いた。
「雛菊という太夫、あれは面白いな」
「雛菊さんとお会いしんしたか、大旦那様。ルイは大層お利口でいんしたでしょう?」
「黒い毛むくじゃらも大きく育っておった。しかし犬としては小さいな」
あれでは鷹に負ける、と頷いて言うのに、くすくすと雪花が笑った。
「碧は土耳古猫なだけありぃして、女の猫にしては大きゅうなりいしたねえ」
お前もいつかは子供をたんとこさえるんでありんしょか、と顔を覗きこむ雪花に、碧がにぁん、と甘えた声で鳴いた。
その様子を、次郎久右衛門は満足そうに見詰めて茶を啜る。
から、と扉が開いて、サンジが戻ってきた。
新たな人の気配に、碧がすい、と眼差しを遣る。
水を張った盥を持ってきていたサンジが、ちりん、と鳴った鈴の音に、ぱ、と視線を投げた。
「……あお!」
サンジだと気付いた碧が、にゃああん、と長閑に返事を返した。盥を板張りの上に置いたサンジが、静かに寄ってきて雪花の隣にへたんと座り込んだ。
じ、と見上げてゴロゴロと喉を鳴らす碧に手を伸ばし、さらりと手でその頭を撫でる。
「わあ、大きゅうなりんしたねえ、碧!」
うっかりと廓言葉に戻ったサンジが、しまった、という顔をして口を押さえた。
くすくすと雪花が笑って、次郎久右衛門はぱちくり、と瞬きをした。
「あねさま、抱っこしていい?」
両手を差し伸ばしながらサンジが言うのに、ふんわりと微笑んで雪花が頷く。
ごろごろと雪花の膝の上で半ば丸まっていた碧は、けれどサンジに大人しく抱き上げられていた。
「わあ、重い。こんなのがコーザさまに乗っかったら死んでしまう」
肩に半ば乗せるようにして碧をからかうサンジの言葉に、そんなんで死んで溜まるかよ、とコーザが呟く声が響いた。
「碧はいつも良い子で、あちきの胸や腹の上には乗りんせんしたえ」
いつも足元で丸まっていた子でありんした、と雪花が笑って言うのに、サンジが目を真ん丸くした。
「うそ。じゃあ胸の上にでんと乗っかって、鼻先だのほっぺただの舐められたことがあるのはオレだけ?」
「ナミやアディもあるやもしれんせんけんど、少なくともあちきにはありんせんなぁ。抱っこして顔を覗きこんでいる時に、舐められたことはありいすけんど」
「……碧、案外ヒトを見てるなぁ」
感心した風にサンジが言うのに、くっと笑った次郎久右衛門が、す、と立ち上がった。
「時折連れて母屋に来い、子狸。我がけむくじゃらと遊ぶのでな」
「大旦那さまがですか?――――解りました」
茶を馳走になった、と言って次郎久右衛門が部屋を辞していくのをサンジと雪花は頭を下げて見守り。女中が先ほど置いていった箱と籠を、サンジが両手で抱えて戻ってきた。
碧の遊び道具一式がきちっと詰まっていることに、くすっと笑う。
「碧は好かれておりぃすなあ」
朱華楼のみんなが大事にしていておくんなんしたのでありんしょう、と呟いた雪花が、そっと中身を確認していく。
碧のオモチャ以外には、誰が包んで仕舞ったのか、手拭に包まれた雪花のお気に入りの簪が二つと、薬屋が前に雪花のために作った薬などが忍ばされていた。
それに気付いて、ぱ、と雪花が頬を赤らめる。
「…エースさんの仕業だ、それ」
サンジが笑って言って、碧の頭を撫でた。
「用途をご存知なのはエースさんとオレだけでしたもん」
「エースさんもサンジと同じお里のひと?」
雪花が訪ねるのに、こくんとサンジが頷いた。
「オレの直属の上司がエースさんでした」
そう、と雪花が頷くのに、にかりと笑う。
「きっとコーザさまに早くお身体をお治しなさいませ、ってことなんですヨ」
「サンジ」
「はい、あねさま」
「それ以上はいけんせん」
顔を真っ赤にしつつも、きっぱりと言い切った雪花にくすくすと笑ってサンジが頷いた。
「近々、熊さんに会いにいきましょうね、あねさま。居間をお借りして、御髪を染め直してまいりませんと」
コーザさまがご自分で起き上がれるようになりましたら、伺いましょうね、と笑ったサンジに、雪花は小さく頷いた。
「そうでありぃすね。うっかりこちらで素の髪を見咎められる訳にはいけんせんものね」
* 七拾四 *
コーザが身体を自力で起こせるようになり。多少立ち上がって歩けるようになってから二日。ずっとコーザに付きっ切りで看病に明け暮れていた雪花は、医者に行く用事があるとして籠屋を呼んでもらい。サンジとゾロに付き添って貰って、シャンクスの別宅に赴くことにした。
髪を緩く結い上げてエースが包んでくれた簪を差し。僅かに紅を差して薄い化粧を施し、次郎久右衛門が届けてくれた艶やかな町娘風の着物を僅かに崩して着込んだ雪花は、寝床に起き上がっていたコーザに向き直ってふんわりと微笑んだ。
「それでは行って参りいす、コーザさま」
艶やかな風情の雪花を、コーザはちょいちょいと指先で呼びよせ。間近にす、と膝を着いた雪花に柔らかな声で告げた。
「寄り道しねェで帰っておいで」
にっこり笑って片眉上げ、
「もう少しおれがシャンとしたら、一緒に外でも歩こうな」
そう続けるのに、雪花がふわりと微笑んで頷く。
さら、と頬に口付けてから立ち上がり。雪花は戸口でコーザを振り返ってからにっこりと微笑み、そして茶室を後にした。
外ではサンジが側に控えており。出てきた雪花を、片手ですい、と支えた。少し離れた場所にいたゾロが、くう、と口端を引き上げて笑った。
背筋をしゃんと伸ばし、視線は落とし気味に歩く雪花に気付き。その武家娘とも町娘とも違う艶やかな様相に籠屋がぼうっと見惚れていた。ゾロに、おい、と声を掛けられ、慌ててそそくさと支度を始める。
履物を脱いで籠に上がり。サンジが履物を揃えて、籠の扉を閉めた。
総髪の小姓めいた出で立ちのサンジが凛とした声で行き先を告げ。掛け声を籠屋が発して籠がぐっと持ち上がる。
サンジとゾロとはもう顔見知りなのか、門番が低い声で挨拶を述べ。重い木の門が開かれて、籠が外へと運ばれる。
武家屋敷が並ぶ静かな山の手から、賑やかな江戸の街中を通り。そうして行き着いたのは、静かな邸宅が並ぶ一角の、シャンクスの別宅だった。
扉口には雪花の見たことの無い女性が立っており。女将めいたその人が、そっと籠の中から出てきた雪花に丁寧に頭を下げて、中へと通した。
サンジは籠屋に礼を述べて返し。木戸をゾロがきっちりと閉じたのに、ふう、と深い息を吐いた。
ゾロが、すい、とサンジの耳元で訊いた。
「なぁ、あの女将サン。タダモノじゃねェだろう?」
「オレの“身内”です」
そっと頷いたサンジに、ゾロはナルホド、といった具合に頷いた。
「ここの見張りは万全ってことか」
雪花は既に家に玄関口から上がったらしい。サンジはゾロを促して庭に回り。井戸から水を汲んで、出してあった盥に注ぎいれた。
「ゾロ、上がる前に足を洗ってくださいね」
「ああ。適当にさせてもらう。オマエはセトさんの髪の手伝いだろう?」
「はい」
「行ってこい」
縁側に腰を掛けて手際よく足を洗ったサンジが。新しく水を汲みなおして、石の上に置いた。井戸の側で濯いだ手拭は、庭の物干しにかけておく。
す、とサンジが家に上がっていくのを見守って、ゾロがぐうっと伸びをした。
そして、屋根の上に座って見守っていたリカルドを見遣って、くうっと笑った。
「よお、絵師。降りて来い。手合わせしようぜ」
リカルドが、くうっと笑みを返して。ゆっくりと立ち上がって、梯子を使ってゆっくりと降りてきた。
「はしごぉ?」
顔を顰めたゾロに、リカルドが小さく笑った。
「絵師は屋根から飛び降りはしない」
「けどまあ手合わせはしてくれるんだろう?」
「そうだな……素手でならいいぞ」
片眉を跳ね上げたリカルドに、ゾロがうっそりと笑って顎を撫でた。
「……素手。へえ?面白そうだな。よっしゃ、じゃあちっと遊ばせてもらうとするか」
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