* 七拾伍 *
江戸市内:遠衛門吉親の『上屋敷』
ばっさりと斬られてからというもの、気付けばずっと雪花が側に居る生活だったので。久々にその存在が側に無いことに、コーザは不思議な心持ちで居た。
毎夜隣りで眠る雪花の布団は、いつものように綺麗に片付けられ。雪花が出かけるまではその足元に纏わりついて甘えていた碧は、今はコーザの足元で丸まって眠っていた。
離れの周囲は静まり返っていて。一人で在るということが如実に伝わってくる。
襲われてから三週間、自由に動けなくなったことはもどかしかったけれども。見初めてからというもの、側に置きたいと思っていた雪花との生活が思いの外早く訪れたことは、正直に嬉しかった。
花魁として育てられたからには決して慣れたことではないだろうに、あれこれとコーザの世話を嫌な顔ひとつせずにこなす雪花は、いつでも和らいだ微笑みでコーザに笑いかけていたし。外にはそう簡単には聞こえない声で、コーザやサンジと英語で喋るその声は甘く優しかったし。気の向いた時間に訪れる次郎久右衛門とも仲が良く。朝夕、城に上がる前に茶室を覗く遠衛門吉親とも、それなりに落ち着いた関係を築けているようなのも嬉しかった。
けれどだからといって、このままの状態で居続けて良いわけもなかった。
いまだ父親には雪花を紹介できていないし、楼主のシャンクスには雪花の身請け代の話しすら出来ていない。雪花の本当の意味での馴染み客がコーザに限定されていたからには、雪花が居なくなって被る損失など知れているのだろうが、それでもそれなりに筋を通さねばならないのが吉原の掟だ。病に罹って療養のために廓を出してもらった、と雪花は笑っていたけれども――――。
かたかた、と木戸が開く音が響き。気配から、それが祖父と父親のものであることを知る。
そういえば、今朝は早くから雪花が出かける支度をしていたからか、まだどちらの訪問も受けてはいなかった。次郎久右衛門に許しを得て籠の手配をしたとサンジが言っていたから、雪花たちが出かけるまで待っていたのだろう。
す、と襖が開き。
「容態は」
そういきなり次郎久右衛門が切り出してくるのに、ゆっくりと身体を擡げた。
「快方に向かっております」
僅かに微笑んだコーザの片目を覆う包帯はまだ取れてはいなかったけれども。顔色は随分とよくなり、肉もまた付き始めたことを見て取り、次郎久右衛門が、ふむ、と頷いた。
つかつかとコーザの側にまで寄り。大仰な仕種で、けれど音を立てずに横に座り。遠衛門吉親が、諦めた様子で襖を閉め、祖父の隣にゆっくりと腰を掛けるのを待つこともなく、いきなりコーザに切り出した。
「おまえは日本国を出ろ」
「何を仰る…?」
ぎゅう、と眉根をコーザが寄せれば。はぁア?と吃驚眼の遠衛門吉親は言葉が告げない状態だ。
けれど次郎久右衛門は真顔であっさりと孫に告げた。
「聞こえたろう。江戸に在っては、おまえは所詮長生きはせぬぞ。誓っても良い」
不吉な予言をした次郎久右衛門は、真っ直ぐにコーザを見据えて低い声で言葉を次ぐ。
「サムライなど下らん階級に生まれおったはおまえが不運。諦めよ」
祖父のむちゃくちゃな言葉に、ますますコーザは眉根を寄せた。
次郎久右衛門は構うことなく更に告げる。
「されど定めは壊すものよ、あの者を連れて国を出るがよかろう。されば自ずとおまえの望む方へ動いて行けよう」
「祖父ど…」
言いかけたコーザを手と目で制し。
「動けぬならば、勝手に頓死すれば良い。さて、我も愚かな孫を持ったと苦杯でも飲もう」
と、もう既に行く末が決まっているかのように淡々と言い切った。
誰よりも驚いたのは、遠衛門吉親だ。
「な、なにを言い出す!折角生き返った息子が嫁を連れてきて、漸く我が家も安泰であるというのに!お気は確かか?」
そう言いながら、次郎久右衛門とコーザを見遣った。
遠衛門吉親にしてみれば、国が不安定に傾きつつあることを知っているからこそ、自分たち老中がしっかりと国を束ねていかねば、と身を引き締める思いだったのだ。外国船の到来は長崎経由で情報がある程度入ってはいたし、異文化であるからといって見て見ぬふりは感心できないからこそ、息子のコーザを長崎に遣ることに承諾したのだ。遠い異国に息子を遣るなどとは言語道断、何しろコーザは遠衛門吉親のたった一人の跡取り息子なのだから。
激しく動転している遠衛門吉親を次郎久右衛門は金色の光りが浮かんだ双眸でじっと見詰め。ぼそ、と低い声で言った。
「安泰、と申すか」
そして、す、とコーザに視線を遣って、軽く片眉を跳ね上げた。
「婿殿はあのもののことを知って、この言われ様か?」
あのもの、とは雪花のことだと理解し、コーザはすっと首を横に振った。
そして父親であると遠衛門吉親に向き直り、静かに告げた。
「父上、雪花太夫は謂わば……ご禁制の人型のようなもの、“いまかぐや”とは巧い言い様にて」
そこまで言って言葉を濁し。父親が、訳が分からぬ、という表情を浮かべたのに、静かにその先を言い切った。
「雪花はこの国のものではございません」
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