☆★★

泣くように歌う女性のヴォーカル。
キレのいいリズム。
バンドネオンの哀愁を帯びた音。

「へえ?ああいうのもタンゴってありなんだな?」
不意に側で、エースが感嘆の声を上げた。
目線の先には、深く身体を重ね合わせるように踊るサンジとゾロの姿。

タンゴ・アルゼンティーノ。
情熱の踊り。
築き上げるのは、二人だけの世界。

「…情熱の踊り、だからな?」

二人が沿うように踊れば、それだけでいい。
きっと直接身体を繋ぐより、心は燃え上がる。

「ふーん」
コドモのように納得の笑みを浮かべて。
エースの手がサラリと髪を撫でた。

何時の間にか戻ってきていたロロノアは、なんだか御機嫌で。
いつもの調子に戻ったシャンクス殿と、楽しげに言葉を交わしていた。
一瞬、緑の瞳が真意を尋ねるように見上げ。
すぐに、なんでもない、とでも言うように、目だけで笑って。
視線はすぐに、シャンクス殿へと移された。

別れてから何年経ったのかは忘れてしまったけれど。
お互い、随分と遠くまで来てしまったのだな、と思った。
瞳を合わせても。
最早胸を過ぎるのは、暖かい懐かしさだけで。
古い友、と呼べるくらいには、心地よい関係を作ることが出来たのだな、と思った。
苦笑が零れた。

フロアに視線が釘付けになってしまっているエースの肩に頭をコツンとぶつけて。
自分を見下ろした黒い瞳に微笑んだ。
彼の本意は解らないけれど。
好意ははっきりと伝わってきたので。

甘えてみるのも、悪くないかもしれない。

ネコみたいに、擦り寄ってみたいと思う自分が、なんだかおかしかった。
なんだか切なくなって、目を閉じた。

「…何を作っていただけるのかな?」
掠れる声で、エースに訊くと。
「あー、悪い。待たせて。すぐ戻るから」
にこやかに笑って、エースが言った。

ワタシがカウンターに座ると。
エースは大きなストロークで歩いていって。
戻ってきたベンさんに指示を受けながら、カウンターの向こう側に立った。

トールグラスを探し出して、子供のように笑ったのがおかしくて。
大きな手が遊ぶように、カウンターの上を動き回るのを見ていた。
「こいつァタイミングが命だからな」
エースの手が金色のレバーを引いてスタウトをグラスに注ぐのに合わせて。
シャンパンを注ぎ込みながら、ベンさんが笑うように言った。
「ああ。恋と一緒だな?おれはタイミングハズさねえよ」
なぜか得意げなエースがそう言って。

ちらり、と見上げたオトコの、それは誇らしげな顔に。
思わす笑い声を漏らしていた。

くすくす、と笑いが零れて。
おかしくて笑ったのは、なんだか久し振りのような気がした。
身体から力が抜けていって。
知らず知らずのうちに強張っていた心が、そうっと緩んでいくのを感じた。


自分の手には、スタウトのグラスを携えて。
ブラック・ヴェルヴェットを作り終えたエースは、するりとカウンターを回ってきた。
くぐもった泡の下の、琥珀色の飲み物。
シュワシュワと弾ける微かな音が心地よくて。

黒い瞳が促すのに合わせて、グラスを傾ける。
苦にならない苦味と、軽やかなコク。
舌に残る、爽やかな甘さ。
喉元を炭酸が滑り込んでいって、一息吐いて。

「リヴェッド。それは合格したかな?」
下から覗き込むように、エースが訊いて。

口の中に残る麦芽の香りに、ゆったりと寄り添うシャンパンの甘さ。
「…ウマい」
しつこさの無いサラリとした味が嬉しくて。
零れるままに、笑みを浮かべた。

「よかった」
スラリと立ち上がったエースが、誉められたコドモのようにあどけない顔で笑って。
「…酒が美味いと思ったのは…なんだか、久しぶりだな」
思わず本音を零した。

酒を味わうとき。
必要になるのは、嗅覚と味覚だけではなくて。
誰と飲んでいるか、とか。
どんな気持ちで飲んでいるか、とか。
酒そのものより、雰囲気が重要な要因であることも多く。

初めて飲んだわけでもないのに、やたら美味しく感じるのは。
…それは、このオトコが作ったものだからだ。

「そっか」
軽い口調のまま、エースは呟き。
そして、なんだか秘密を告げるみたいに少し落としたトーンで。
「だってよ?おれが、あんたのために作ったんだぜ?」
見詰める瞳は逸らされることなく。
長い指が、頬を滑って。
「美味くなきゃ、ウソだろ」
…囁くみたいに、言い切って。

あんなに気を付けていたのに。
あんなに避けようとしていたのに。
もうとっくに、このオトコに恋している自分に…気付かされてしまった。

「…ああ…そうだな」
溜め息のような声しか出なくて。
なぜだか急に胸が痛んで。
泣きたく、なった。


しなやかな指先が、手の中にあったグラスを奪い取って。
世界からワタシを隠すように。
逞しい腕の中に、閉じ込められた。



★ ☆★

人はどうして、恋をするのだろう。

時を選ばず。
どうしようもなく。
惹かれあう磁石のように、お互い以外は見えなくなって。

今なら、引き返せる。
傷つきすぎないうちに、何もなかったことにできてしまう。

けれど。
思いとはウラハラに、身体は正直に動いて。
ゆるゆると手は動いて、エースの首に抱きつく。

合わさった胸から感じる、少し高めの体温とか。
今日一日だけで慣れ親しんでしまった、なんだかホッとするようなニオイだとか。
なかったことには、できなくて。
知らなかったことには、してしまえなくて。

この先に訪れる別れ。
痛くて。
辛くて。
きっと泣いてしまう。
それは、ちゃんと解っているのに。

溜め息と共に、顎が頭に乗せられるのを感じた。
まだ慣れないその重みに、涙が零れそうになるけれど。

きっとこの人も。
同じ、想い。

震える心を押さえつけて。
泣いてはいけない、と言い聞かせる。

泣くのは後でもできることだから。
悔やむのは、独りででもできることだから。
今しか出来ないことを、しなければ。

一つ、息を呑んで。
「…もう一度…ワタシと踊ってくれないか?」
精一杯の気持ちを込めて、囁いた。
悩まないで済むほどに。
このオトコのことだけで埋め尽くされたかった。

エースが小さく溜め息を吐いて。
苦笑交じりの声で言った。
「…あんたはさぁ。おれがそう言うの、もうちょっと待っててくれてもいいだろ?」

少し拗ねたような口調の、からかう声。
このオトコはまだ幼く。
そしてどうしようもなくやさしいのだろう。
あやすように、身体が左右に揺らされて。

今は、考えるな。
先のことは、考えるな。
目を瞑って、自分に言い聞かせて。

「…すまない。…どうにも、リードするばかりの人生だったからな」
苦笑交じりに、そう告げた。

身体がスイと離されて。
「ま。気長にいこーぜぇ?」
軽い口調に乗せて、やさしいウィンクを贈られた。
少年のような笑顔の向こうには、思慮深い眼差しがあって。

「それでは、我が姫君。御手をどうぞ」
手を取られて。
導かれるままに、フロアに立った。
かちり、と視線が合わさって。

「…喜んで」
隠せない思いのままに。
誘いを受けた。



☆ ★☆

エースの腕に抱かれたまま。
視界の端に、ピアノの前に座ったロロノアの姿を捕らえた。
何時の間にか、タンゴは止んでいて。
聴こえるのは、エースの鼓動ばかりで。

自分とは違うリズムを刻む身体に。
自分とは違う熱を持つ身体に。
縋りつきたくなる。

このまま、時が止まってしまえばいいのに。
そう願っても、叶わないのに。
全てを投げ出してでも、祈ってしまいそうな自分が。
なんだか哀れで。

目を閉じて、涙を堪えた。
今自分を包むオトコのこと以外の全てを。
考えまいとした。


ポン、ピアノの音が響き。
泣きたくなるような切なさを含んだその重さに、思考を奪わせる。

短く遊ぶように弾かれる「Mona Lisa」。
溜め息が零れた。

ふいにオトコが身じろいで。
「リヴェッド…?」
名前を呼ばれた。

「オレさ、」
見上げるヒマも無く、言葉は紡がれて。
そして、正しい言葉を選べなかったかのように、沈黙が続いた。

曲調が少し替わって。
別の曲が始まり。

けれど、見上げることが出来ず、目を閉じたまま続きを待つ。
少し逡巡した後、低すぎないエースの声がして。
「今日を最後に。誰とも、踊らねえよ」
妙にきっぱりとした声で、断言された。

意味がわからなくて。
何を言われたのか、わからなくなって。

やっとの思いで目を開けて。
なぜだか揺れる視界のまま。
エースの瞳を覗き込む。
「…どうして?」

「あんただけにやるよ」
オトナの顔をしたエースが、目だけで微笑んで。
「……ごめんな」
すぐにその笑みを崩した。

「…なぜ謝る?」
ちゃんと喋ることができなくて。
情けないくらいに弱々しい声で訊ねる。

謝ることなんて、ないのに。

「あんた、イイ女過ぎるから、な」
酷く真摯な声に。
オマエは夢を見てるんだ、と言いたくなって。
けれど、言うことが出来なくて。
視線を落とした。

ワタシはイイ女なんかじゃない。
素直になれない、唯のコドモなのに。
あんなにいろんなことを経験してきたのに。
まだ傷つくことが怖い、唯のコドモなのに。

「―――未練できちまうよ」
泣きそうな声で、エースが言った。

顔を上げて。
泣きたいような、困ったような笑みを浮かべるエースを見上げて。
その頬にゆっくりと指を滑らせた。

泣かないで。
「…すぐに…忘れる」
悲しまないで。
「旅を始めれば…すぐに、忘れるだろうよ」
ワタシも、オマエも。
そうやって乗り越えていく術を。
ちゃんと知っているのだから。

だから、悲しまないで。
出会ってしまったことを。
いつかは…遠い昔の思い出に、なるから。

「それも、辛ェなあ」
溜め息のように、エースが呟いて。
コツン、と額を合わせられた。

けれども。
思い出だけに縋ってこれからを生きていくには。

「…これから先を過ごすには…想い出が、少なすぎるだろう?」
まだ、これだけでは。

きっとこれから先、生きていく限り。
他のどうでもいいような思い出や記憶が、後から後から降り積もり。
この瞬間に感じる恋しさや、痛みを全部。
埋めていってしまうから。

忘却の彼方へと、連れ去ってしまうから。

「それとも…忘れられないくらいに、ワタシの心を埋めてくれるのか…?」
同じ痛みを抱える覚悟を。
してくれると、いうのだろうか。

「……ラストダンスまで、だな。充分じゃねえ」
エースがにっこりと笑って。

「…そう、だな」
キラキラと、夜の海のように煌く瞳に。
そのオノレに言い聞かせているような口調に。

泣いてしまいそうで。
悲しませてしまうことが、哀しくて。
視線を、落とした。



☆ ☆★

曲のテンポが変わり。
寂しすぎない音に、自分の置かれている状況を思い出した。
そしてそれは、エースも同じだったようで。

不意にエースの身体が動いて。
「悪い、騎士失格だったな」
先ほどの、どうしようもない切なさを拭い去るように。
明るく言い放った。

切なさと対峙するのは、今でなくともできるのだから。
「…スローダンスくらいは、踊れるのだろう?」
気持ちを切り替えたフリをする。

「ここは、ひとつ。スローダンスだから見逃してくれよな?」
コドモのようにあどけない表情を宿したまま、酷くオトナの目で見詰めるエースがいて。

闇色に輝く瞳のなかに。
自分の姿を見つけた瞬間。
どうしようもなくこのオトコに。
恋焦がれている自分に気付いた。

キュ、と胸痛んで。

「…ワタシを…楽しませてくれたら、な」

このオトコに抱かれたい。
このオトコのことだけで、埋められたい。
そんな衝動が、身体中を駆けずり回って。

深く膝を折って、一礼。
このオトコのことしか、考えたくない。

「任せろ」
エースがにっこりと笑って。

愛しくて。
切なくて。
感情が、渦巻く。

手を差し伸べられるままに、フロアに滑り出て。
するりと自分を抱きこんだ力強い腕に、溢れる溜め息を零す。

エースの首に、両腕をかけて。
厚い胸板にもたれかかる。
首筋に顔を埋めて。
こめかみに寄せられた頬の熱さを、感じる、

オトコが刻む鼓動のリズム。
熱いエネルギー。
内側に隠し持った、情熱の炎。
曝されて。
触れ合った部分から、肉体が融けてしまいそうになる。

ゆったりとピアノの音に合わせて、左右に揺れるように踊りながら。
スリ、と頬を摺り寄せた。
心を決める。


★ ★★

後悔するよ、と囁く理性を押し殺して。
傷つくよ、と笑う予感に目を瞑って。

このオトコになら、泣かされてもいい。
―苦しみも、痛みも、寂しさも。
このオトコが手に入るのなら。
―両腕で抱きとめるから。
このオトコの胸の中に、いつまでも残る想いとなれるのなら。
―それすらも、歓びになる。

傷ついても、構わない。

だから。
「…オマエが今日で踊ることをやめると誓うのなら…」
振り絞っても、囁きにしかならない声で伝える。

腕に回された力が強まって。
痛いと訴える肉体に、心が喜びを覚える。

「…ワタシも同じ事を誓ってやる」
だから、オマエも。
同じ想いをすることを。

覚悟してくれないだろうか。

不安に揺れる気持ちのままに、腕を下ろして。
身体を少し離して、エースの瞳を覗き込むと。
エースは驚いたように、一度目を見開いて。
「ああ」
信じられないくらいにやさしい顔で。
笑った。

ほっとして、目を閉じると。
抱き込まれて。
頬がすぅと押し付けられた。
そして耳元で。
「頼む」
やさしい声が言った。

このオトコを欲するのと同じ強さで。
このオトコに欲されたい。
だから、声で、先を強請る。
名前を、呼ぶ。
祈るような気持ちで。
アナタが欲しい、と。

「…エース」

ぐ、と抱きしめられる力が強められて。
困ったように苦笑を含んだ声が、耳元で囁いた。
「だから。リード取るなって」

再度エースの首に腕を回して。
どうしても揺れてしまう声で告げる。
「ワタシは…気が短いんだ」
アナタが欲しくて、仕方が無いから。
この気持ちを抑えられないから。

回した腕に、力を込めて縋りつく。
それしか、できないから。

苦笑交じりの声が降ってきて。
「……なんで、こうまで可愛いかねぇ、あんたは」
身体が少し離されて。
熱い唇が、瞼に落とされた。

安堵するような。
泣きたいような。
熱くて痛い感情が身体を支配して。

唇を噛んで。
零れそうな涙を飲み込んで。
エースの首元に、顔を埋めた。



☆ ★★

熱い肌。
逞しい身体を、押し付けた身体全体で感じて。
ただ抱き合うことの喜び。
いつまでも、こうしていたくて。
けれど、そうはならないことを、知りすぎる程に知っている。

やさしいピアノがキーを変えて。
甘く、低く、声が響いた。
初めて聴くロロノアの歌声。
なぜだか胸が痛んだ。

『黄昏時の紫の光が
 心の広い場所に忍び寄ってくる
 遥か空の上、小さな星は昇り
 ぼくらが離れていることを
 いつだって思い出させる』

「誰だ、こんなの歌うのは。クッソ」
エースが呟いて。
「おれを泣かせようってか、ア?」
笑おうとして、笑えなかった声。
笑いかけてあげたくて、でもできなくて。

『キミはキミの道を歩み、遠くへ行き』

揺れる瞳で手を伸ばし、頬に触れる。

『ボクは消えない歌と共に残された』

「ほんと、悪ィ」
同じように揺れる瞳で、笑って囁かれて。

『愛はもはや昨日の星屑』

…やさしく、口付けられた。

『過ぎ去った日々の歌』


     ☆★☆

手を伸ばして。
黒い髪に手を入れて。
口付けを受け止める。

『時々考えながら  寂しい夜を過ごす』

思考を手放して。
他の全てを忘れて。

『歌を夢見ながら』

エースをかき抱いて、先を強請る。

『メロディは記憶に刷り込まれ  ボクはまたキミに寄り添う』

他には、何もいらないから。
「…聴こえないくらいに、強く…」
ワタシを、…抱いていて欲しい。

『愛が芽生えてすぐの頃  キスする度に思いを得た』

「忘れるって約束してくれたら。あんたを連れ出す、ここから」
口付けを解いた距離で。
強い声が囁いた。
「何度でも忘れて、そのたびに思い出せよ…?」

『だけどそれは もう遠い昔のコト』

このヒトも。
同じ想い。
取り返しのつかない恋をしている。

『今ボクを慰めるのは 歌の星屑だけ』

いつかはアナタを。
「…忘れる、から…」
そして。
いつでもアナタを。
「…忘れる度に…思い出すから…」

愛して。

『庭の壁の傍  星が眩しい夜には  キミの姿が見えるよ』

「…もう、言うなって」
耳元で囁かれて。
ふわり、と身体が宙に浮いた。

『ナイチンゲールが御伽噺を語る  バラが咲き乱れた楽園のことを』

不意に照明が落とされ。
抱き上げるエースの腕の強さとか、早まった胸の力強い鼓動とか。
このオトコのことしか、見えなくなる。
このオトコのことしか、解らなくなる。
初めて恋をした小娘のように。

エースの首にしがみ付いて。
抱き上げられた姿勢のまま、首もとの顔を埋める。
髪に残る、微かな石鹸のニオイに。
胸が、疼いた。

「じゃあ、攫うぞ?」
暗いフロアを力強く横切りながら。
抑えた囁きで訊かれて。

『虚しく夢を見ていても』

このオトコがまだ青年に成り立てだということを。
久し振りに思い出した。

ワタシは酷いことをしているのかもしれない。
けれど…。
「…確かめるな、バカ…」
…愛さずには、いられなくて。

『ボクの心に残り続ける』

「姫には礼をつくさねえとな?」 くすり、とエースは笑って。

『星屑のメロディ  繰り返す愛の思い出』

…夜の闇へと、連れ去られた。







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